2022/7/29
昼ごろ2時間眠り、15時ごろ京王線で高尾山口駅へ行く。
古い靴、履けないこともないので無理矢理履いている。
ケーブルカーの麓の清滝駅までの道で、山から降りて高尾山口駅に向かうひとびととすれ違う。雲もなく炎天下、肌が熱い。
6号路から入山する。6号路が一番好きだ。
夕暮れ前のこの時間、すでに夜や夜明け前に満々と満たされていた静謐な空気感はなく、人に立ち入られて霊気は逃げ出したか、地中に踏みしめられてなかに入ってしまっている。ただの荒れた山道は、すこしもったいないキモチ。
山頂までの6号路の中間あたりで、水流の側を徐々に離れて大きく曲がりくねったカーブを2つ3つ越した道の斜面に黒い大きな人形が立っている。
人とも幽霊だとも見間違わないが、どことなくヒトガタのものが斜面に立っている。
近づいで見ればそれは立ち枯れた木であった。先端の方に向けて削った鉛筆のように窄まっている。それがなんとなく髪を引っ詰めた着物の女性のようにも見える。
やがて稲荷山コースと合流して板敷きの整備された道になる。整備されているもののこの道が結構きつい。山頂に昇る最後の階段を登り切った。
山頂に美しいバナナの実があった。バナナの実というのはたとえで、それはブロンド美女の履くホットパンツから伸びた長い脚。木陰に座り込んで携帯をいじっていた。その投出された白き門が神々しくあった。
山の神とは醜い女神ということだが、わたしの眼を癒してくれる彼女たちの肢体はまさしくミューズに違いないのだ。
山頂には幾人もの若者が腰を下ろして休んでいた。
薬王院へ歩く。不動堂で手を合わせていると、足元の敷石に振り撒かれたような液体が消え去らないで残った痕がある。
ひょっとするとたびたびどこかの神社で被害に遭う、油を振り撒く悪戯、器物損壊事件ではないかと思う。つっと指先でそのしみに触れて鼻先に持っていく。臭いはしない。わからなかった。
飯綱大権現にむかって手を合わせていると、先のほうから美しいしとやかな女が現れた。すれ違い稲荷社の方へ去っていった。
ケーブルカー山上駅で待ち合わせをした妻とビアマウントで、たまの贅沢で食べ放題をした。2時間4200円。陽が暮れるまでのんびりと遠くに見える街を見下ろしながら食事をする。周囲の山々からひぐらしの一大輪唱が聴こえる。
ケーブルカー麓駅で待ち合わせをすることにして、わたしはひとりで一号路を降って下山する。ケーブルカーで一気に降りてしまうのは勿体無いほどのひぐらしの鳴き声を全身に浴びた。昇る時には味わえなかった霊気が徐々に戻っていると感じた。ひぐらしの声に呼び戻されたようである。
わたしはこの霊気を大切にしたい。
清滝口に着くとケーブルカーで降りてきた妻とジャストタイミングで合流した。高尾駅からバスに乗り、我が家の最寄りのバス停に降りると花火の音が聞こえる。
駆け出していって住宅地のすき間から見えるところまで歩いた。
裏山の切れ間に花火があがっていた。近隣の住人も花火の音に誘われて路上に集まった。八王子まつりにはまだ一週間はやい。サプライズ花火であろうか。
路上に集まったひとたちは静かに夜空を見上げた。10分ほどして花火は鳴り止んだ。
集まった人々は何もなかったかのようにそれぞれの家に入って行った。
帰ってシャワーを浴びて眠る。ひりひりとカラダが痺れたように、肌が火照り、その熱くなった肌を癒すように無茶苦茶に寝た。
2022/7/22
午過ぎ、小豆島に葉書と、姉のところへ絵を送った。
駅前コンビニの前に座り込んで電話をしている男がいた。その男の足元には男の鞄と8枚切りか6枚切りの食パンの袋が、袋の口が開いた状態で無造作に置いてあった。
袋越しとはいえ食べ物をそんなところに直で置くのはやめてくれ。
見ているのもバチが当たりそうだよ。
2022/7/20
一年振りに大山に昇る。
朝5時半に家を出て、電車を乗り継ぎ、大山ケーブル下に7時半過ぎに着いた。
男坂を登り始めたのが8時ごろ。毎回思うのだが、大山山頂までの行程で男坂が一番しんどい。
今回水分を買い忘れて登り始めてしまい、まじで死を意識した。
その全身疲労もあって大山阿夫利神社から奥社までの参道は、のろのろと休みながらゆっくり登った。
若い女の子がふたり、前方を楽しげにお喋りをしながら登っている。大したものだ。
40のおっさんはぜーぜー息をきらして追いつくことすら出来なかった。
10時ごろ下山する。登りよりも降りの方が体に、膝に堪える。
木の上でサルが鳴いたような気がしたので見上げるも発見できず。
下社に手を合わせ、神泉をいただいて帰る。帰りはケーブルカーに乗って下った。
伊勢原駅行きバスに乗っていると、全身甲冑を着込んだおじさんが自転車を降りて押して歩いていた。
何者か。観光関係者か。
13時ごろ八王子に着く。腹が減っていたので丸亀製麺でぶっかけうどんを食べる。
東美に注文していた額縁を受け取りに行った。
家に帰り冷たいシャワーを浴びて、体を洗った。夜中までずっと体を休めていた。
休んでいると急遽深夜掃除を頼まれたので自転車を漕いで高尾山に向かった。
中央線の線路脇で、何やら作業員が作業をしていたけども、人身事故でもあったのだろうか。
2022/7/18
深夜清掃が連続しているので、昼過ぎまで疲れて眠っていた。夕方額縁屋に行ったが海の日の祝日で開いていなかった。駅ビルの履物屋でヨネックスのウォーキングシューズを新調した。オーダーメイドの中敷きもついでに頼んだ。
中敷だけで一万円もした。ふざけるなとも思ったが、長く履くにはこれくらいかかるものなのかもしれん。
深夜清掃に行くと、昨夜いたセミのサナギは居なくなっていた。
無事羽化出来たか知らん。あのクリクリした瞳が目に焼きついている。
2022/7/17
給水器の銀色のタコメーター、その回転音。地球の脈拍、水琴窟の機械音。
地下鉱脈の活動家の謀略………………………
9時ごろ上野駅に着き、国立西洋美術館に展覧会を観に行く。その10時の開館までの間、喫茶ギャランで時間を過ごす。店内には懐かしい曲がかかっている。
加藤登紀子、ハイファイセット…、妻には堪らないような選曲の歌謡曲ばかりだった。
クリームソーダを飲みながら窓の外、ガード下に集っては去っていく上野、御徒町あたりにいる男たちの姿を見ていた。
10時になり、美術館へ向かう。
休日ともあって人出があった。
「自然と人のダイアローグ」とかいうよくわからない展覧会のタイトルで、展示構成が見づらく、何を見せようとしているのかさっぱりわからなかった。
個々の作品は当然素晴らしい。セザンヌ、アンドレドラン、ムンク。
ムンクはいくつかの面白い素描画が掛かっていた。作品の強度がはっきりしていた。だが展覧会全体として何を見せたいか、何を伝えたいのかはっきりしない。
最近、特に海外の「美術館展」をやる美術館がやたらと多い。これは開催する美術館の怠慢以外のなにものでもないと思うのだが。もっといえばそこにいる学芸員が仕事をしているとは思えない。他人の褌で相撲を取るようなもので、「この美術館にはこんな収蔵品があるんですよ〜」、と紹介することの無意味さをとっとと理解したほうが良い。この企画展も結局は、ドイツの「美術館展」だった。
時代で括っても良いし、ひとりの芸術家に絞って良い。企画展とはそういうことだろ。焦点も作らず借り物の作品を並べるだけで何になる。学芸員よ働こう。Otto dixの展覧会を、ノイエザハリヒカイトの展覧会を作ってくれい。
数年ぶりに常設展を見る。なつかしかった。ルーベンスの描いた二人の子どもの絵などはよく観に行ったものだった。
最近、近代彫刻に関心のあるわたしはブールデルの「瀕死のケンタウロス」という彫刻作品が間近で見ることができて良かった。
上野公園を通り抜け、根津神社に向かう。
池之端でベトナム料理屋を発見して入店する。おいしかった。
根津神社で、妻は拝殿に上がり御祈祷してもらっていた。
千代田線で六本木に移動して、国立新美術館に入館する。
こちらは「ルートヴィヒ美術館展」という企画展で、やはりこれも海外の美術館紹介展である。
ただ、こちらは美術館の建物自体が広くて天井も高いので、単純に作品が見やすい。
それにわたし自身には、ドイツの蒐集家のコレクション作品群だけあって、オットー・ディックスなどのノイエザハリヒカイトの作品が何点か含まれていたのでそれだけでも大きな収穫であった。
またゼーハウスという聞いたことのない作者の、崖の上の町を描いた作品なども好きだった。アンドレドランの作品がこちらにもあったが、やはり良かった。
今日2カ所の展覧会を観に行って気になったことがある。それは鑑賞者が作品をスマートフォンで写真を撮っても良いということだ。
目の前のものをそのまま切り取る行為が、ちょうど国立新美術館の企画展の終盤、壁にかけられた、世間に蔓延る広告などをそのまま描いているポップアート作品に符合していた。
絵画を鑑賞することは、観る人個人の中に静かに沈殿し、なんらかの作用や反応が内からじわじわと起こるものだと思っているのだが、違うのか。
美術館のまわし者のようになって、絵画の表皮を写真に撮り喧伝していてどうなる。
ここでもっとも蔑ろにされているのは、観るという心理なのだ。そのことを美術館は考えてないらしく、やって来る人間もギモンに思わないらしい。
わたしはいまカメラを捨て去る時に来ている。もう近頃は何処へ出掛けるにもカメラを持って行かないしケータイすら持ち歩かない。
(*この半年後折りたたみ携帯からスマートフォンに買い替えて、今ではバシバシ写真を撮っている。まったくいい加減なものである。)
憧れの画家たちの眼にすこしでも近づきたいのだ。
世間から必要とされない眼、生産的ではない眼、便利ではない眼、役に立たない眼になりたいのだ。
(*そのキモチはいまも変わっていない)
ワニがぐるぐるまわる作品が無料公開していたのでついでに観る。
作者のメッセージがそのままキャプションになっていたのだが、「ワニが回ることに関してはきかないでほしい」と書いてあった。
そこまであっけらかんとしているとなんとなく心地よい。さわやかなワニのオブジェがくるくるまわり続け、音はないものの、風鈴のような納涼感があった。
都心に繰り出すと、夏の女が輝いてみえる。豊かな胸と豊かな尻。午睡に添い寝をしたい。そんな妄想が広がっていく。
どうやらわたしの妄想はティーンエイジの頃で止まっている。
深夜清掃で温泉施設玄関を掃き掃除をしている時に、柱を蛹の蝉がゆっくりゆっくり昇っているのを、生まれて初めて目撃した。生命の尊さ!
掃き掃除の手を止めて、顔を近づけて見守ると、こてんと落下して仰向けにもがいていた。指を差し出し捕まらせてやった。ガシッと掴んだ繊細な脚とお腹が温かい。柱に移してやるとまだ指にその温みが残っていた。羽化する前の蛹は、その体内に脱皮する熱エネルギーを溜め込んでいるのだろう。
仕事が終わって、先刻移してやった場所を見ると蛹は軒まで昇っていた。
明日は脱皮するだろうか。
小山真徳 展覧会情報
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