2022/7/17
給水器の銀色のタコメーター、その回転音。地球の脈拍、水琴窟の機械音。
地下鉱脈の活動家の謀略………………………
9時ごろ上野駅に着き、国立西洋美術館に展覧会を観に行く。その10時の開館までの間、喫茶ギャランで時間を過ごす。店内には懐かしい曲がかかっている。
加藤登紀子、ハイファイセット…、妻には堪らないような選曲の歌謡曲ばかりだった。
クリームソーダを飲みながら窓の外、ガード下に集っては去っていく上野、御徒町あたりにいる男たちの姿を見ていた。
10時になり、美術館へ向かう。
休日ともあって人出があった。
「自然と人のダイアローグ」とかいうよくわからない展覧会のタイトルで、展示構成が見づらく、何を見せようとしているのかさっぱりわからなかった。
個々の作品は当然素晴らしい。セザンヌ、アンドレドラン、ムンク。
ムンクはいくつかの面白い素描画が掛かっていた。作品の強度がはっきりしていた。だが展覧会全体として何を見せたいか、何を伝えたいのかはっきりしない。
最近、特に海外の「美術館展」をやる美術館がやたらと多い。これは開催する美術館の怠慢以外のなにものでもないと思うのだが。もっといえばそこにいる学芸員が仕事をしているとは思えない。他人の褌で相撲を取るようなもので、「この美術館にはこんな収蔵品があるんですよ〜」、と紹介することの無意味さをとっとと理解したほうが良い。この企画展も結局は、ドイツの「美術館展」だった。
時代で括っても良いし、ひとりの芸術家に絞って良い。企画展とはそういうことだろ。焦点も作らず借り物の作品を並べるだけで何になる。学芸員よ働こう。Otto dixの展覧会を、ノイエザハリヒカイトの展覧会を作ってくれい。
数年ぶりに常設展を見る。なつかしかった。ルーベンスの描いた二人の子どもの絵などはよく観に行ったものだった。
最近、近代彫刻に関心のあるわたしはブールデルの「瀕死のケンタウロス」という彫刻作品が間近で見ることができて良かった。
上野公園を通り抜け、根津神社に向かう。
池之端でベトナム料理屋を発見して入店する。おいしかった。
根津神社で、妻は拝殿に上がり御祈祷してもらっていた。
千代田線で六本木に移動して、国立新美術館に入館する。
こちらは「ルートヴィヒ美術館展」という企画展で、やはりこれも海外の美術館紹介展である。
ただ、こちらは美術館の建物自体が広くて天井も高いので、単純に作品が見やすい。
それにわたし自身には、ドイツの蒐集家のコレクション作品群だけあって、オットー・ディックスなどのノイエザハリヒカイトの作品が何点か含まれていたのでそれだけでも大きな収穫であった。
またゼーハウスという聞いたことのない作者の、崖の上の町を描いた作品なども好きだった。アンドレドランの作品がこちらにもあったが、やはり良かった。
今日2カ所の展覧会を観に行って気になったことがある。それは鑑賞者が作品をスマートフォンで写真を撮っても良いということだ。
目の前のものをそのまま切り取る行為が、ちょうど国立新美術館の企画展の終盤、壁にかけられた、世間に蔓延る広告などをそのまま描いているポップアート作品に符合していた。
絵画を鑑賞することは、観る人個人の中に静かに沈殿し、なんらかの作用や反応が内からじわじわと起こるものだと思っているのだが、違うのか。
美術館のまわし者のようになって、絵画の表皮を写真に撮り喧伝していてどうなる。
ここでもっとも蔑ろにされているのは、観るという心理なのだ。そのことを美術館は考えてないらしく、やって来る人間もギモンに思わないらしい。
わたしはいまカメラを捨て去る時に来ている。もう近頃は何処へ出掛けるにもカメラを持って行かないしケータイすら持ち歩かない。
(*この半年後折りたたみ携帯からスマートフォンに買い替えて、今ではバシバシ写真を撮っている。まったくいい加減なものである。)
憧れの画家たちの眼にすこしでも近づきたいのだ。
世間から必要とされない眼、生産的ではない眼、便利ではない眼、役に立たない眼になりたいのだ。
(*そのキモチはいまも変わっていない)
ワニがぐるぐるまわる作品が無料公開していたのでついでに観る。
作者のメッセージがそのままキャプションになっていたのだが、「ワニが回ることに関してはきかないでほしい」と書いてあった。
そこまであっけらかんとしているとなんとなく心地よい。さわやかなワニのオブジェがくるくるまわり続け、音はないものの、風鈴のような納涼感があった。
都心に繰り出すと、夏の女が輝いてみえる。豊かな胸と豊かな尻。午睡に添い寝をしたい。そんな妄想が広がっていく。
どうやらわたしの妄想はティーンエイジの頃で止まっている。
深夜清掃で温泉施設玄関を掃き掃除をしている時に、柱を蛹の蝉がゆっくりゆっくり昇っているのを、生まれて初めて目撃した。生命の尊さ!
掃き掃除の手を止めて、顔を近づけて見守ると、こてんと落下して仰向けにもがいていた。指を差し出し捕まらせてやった。ガシッと掴んだ繊細な脚とお腹が温かい。柱に移してやるとまだ指にその温みが残っていた。羽化する前の蛹は、その体内に脱皮する熱エネルギーを溜め込んでいるのだろう。
仕事が終わって、先刻移してやった場所を見ると蛹は軒まで昇っていた。
明日は脱皮するだろうか。
小山真徳 展覧会情報
by Koyama Shintoku
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