妻有鷲眼記⑶ 里山礼讃

『里山』はどこにあるだろう。

考えてみると『里山』は、都会に住み田舎暮らしに憧れを抱く暮らしむきに余裕のある方々の頭の中と、オーガニック食を全面に押し出し売りにした食品業界で使われる〈めしうまワード〉として存在しているように思われる。

いま東京で住んでいる家の近所のショッピングモールのフードコートの名前の冠にも『里山』の言葉が使われている。

もし田舎で『里山』の文字に出会ったら、それはそこに住む人間に向けられているのではなく、観光でやって来る都会の人間に向けられているだろう。なぜなら『里山』と呼ばれているところに暮らしている人たちが、自分たちの住んでいるところを『里山』と言っていることを聞いたことが無いからだ。

都会の人間にしてみれば、『里山』という言葉は風景が立ち浮かぶような魅惑的な言葉で、牧歌的で無添加で、素朴で絶品で、幻惑的な言葉なのだ。

自然の中で動植物と共生しながら田畑を耕し維持管理し穀物を育て、観光客が散策しやすいようにはみ出た雑草は容赦なく刈りこんで見栄えを良くする。

そこで野生の果実を採取して果実酒を作るような欲望は汚れており、清らかで聖なる里山にはとっても似つかわしくないのかもしれない。




5月上旬は、厚着を着込んでそのうえカイロをしないとまだまだ寒い季節だった。

作品制作をしているところは『里山』と呼ばれるところである。

作業中近所の農家さんのHさんがやってきてお話をした。

いま制作している作品の話や、土地の話をいろいろ尋ねた。

「このあたりに桑の木はありますか。」

「昔はたくさんあったけど、どうかなあ。あるとすればあそこにあるかもなあ。気にしておくよ。」

そう答えてくれた3日後に再びHさんがやって来た。


まだ実が成っていないので確かではないが、葉が桑の葉のようだから、もしかしたら桑の木かもしれないという。

さっそくふたりで見に行ってみると確かにそれは桑だった。

小さな木だがボツポツと周辺に幾つかある。

桑の実で桑の実酒を作りたい旨をHさんに打ち明けると、もう誰も桑の実を採る者もおらんから構わんと思うと教えてくれた。



それ以降、時折実を観察に行っては実が熟す頃を愉しみにしていた。




6月下旬、作業を一日休んで桑の実酒を作ることにした。

目星をつけていた場所の桑の実を収穫する。

この桑は芸術祭で設置された恒久展示作品の傍の駐車スペースにある。

桑の木が駐車スペースに迫り出すために頻繁に伐採されているようで太い木はない。そのため小さな実しかぶらさがっておらず、色付いていてもあまり甘くない。

それでも足場の良い駐車場にあり背の低い木なので、手が届きやすく収穫するのに好条件なので、眼につく限りの実をもぎ採った。

その駐車場から離れ、腰の高さ以上の生い茂る草をかき分け50mほど山の中へ入って行った先に大きな桑の木が立っている。何度か下見をするうちに、この落人のような存在の老齢の桑を発見していた。

大きな幹から伸びる枝の葉の間からは、成熟した女性の唇のようなどどめ色のはち切れそうな実が、雨後の蒸気でぬらぬらと輝いてぶら下がっている。

一粒もぎり口に放り込む。舌と歯を跳ね退けるようなムチムチとした実の肉感と、気が遠くなってしまいそうな甘さがある。

足場の悪いこの桑の木の下に脚立を運び込み、大粒の山の恵みを頂戴した。



昼前に収穫を終え駐車場に戻ると、草刈り作業をしている地元の方々に遇った。こちらに滞在している中で知った方も居たので挨拶をする。

ニコニコと笑いながら「ドロボーでねえか」と収穫したことを揶揄われた。

「誰も採らないからいいじゃないですか」と俺もはにかんで答える。


「ここから少し下ったところにウワミズザクラがありますが実を採る方は居ますか?」とアンニンゴについてついでに訊いてみた。

「いや、それは誰もおらんが、一粒○○円だなあ」とまたしても笑いながら揶揄われた。

それは冗談のつもりだろうけど、なんだか冗談に聞こえず笑えなかった。



宿舎に戻って収穫した実を水で洗い、一粒一粒手にとって茎をハサミで切る。すべての茎をとり去るのに5時間かかり、

実を竹ザルに移しならべ、風をあてて水気をとる。


夕暮れの中もう一度桑の実を採りに行った。

駐車場の桑の木は根元から伐採されていた。昼間草刈りの方々に遇ったときに、桑の実の収穫を愉しみにしていたと話していただけにとても暗い気持ちになった。


採った実をホワイトリカーと氷砂糖と一緒に漬け、4Lの瓶が2瓶出来た。




7月中旬、作品制作で忙しい最中、目星をつけていたウワミズザクラの実の様子を見に行った。

数本あったウワミズザクラの木がすべて根元から切られていた。

周囲の木はそのままに、ウワミズザクラの木だけが切られていた。

車道にはみ出していて危険だという感じではなかったし特に邪魔だとも感じなかった。

何故切られる必要があったのだろう。


俺はあの時に、ウワミズザクラの話をしたことがこんな結果を招いたんじゃないかと烈しく後悔し、ウワミズザクラに謝りたい気持ちになった。

クワの木もウワミズザクラの木も、実が鳥や動物に食べられるならまだしも、他所の人間に食べられてしまうくらいなら切ってしまえとばかりに無惨に切断されたように思えて仕方がなかったのだ。




いま考えればそれは俺の勝手な思い込みであることは十分考えられるが、その時は大きな衝撃で心は断絶してしまった。


by koyamamasayoshi | 2018-10-01 23:49 | 日記


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