日本の風景
先月末、メキシコから帰国した。先輩のKさんがメキシコにて海外研修制度で留学中で、俺は直接現地へ様子を見聞しに行った。10代の頃から憧れていたメキシコ。その2週間の滞在の記録はあらためてゆっくり追憶して書いて行きたい。
帰国し成田空港から京成線で都心にむけて走る車窓の日本の風景は全くツマラナイものに映る。日暮里駅で下車する。通勤時間帯に行き交う、頭の先からつま先まで黒一色の生気のないうつろな群衆。生まれて初めて海外へ行き、日本を見つめると、こうも脆弱で、画一で、幻想で、亡霊で、衛生的で清潔でツマラナイんだろうと感じる。
少し前に、ある人と話をしている時に、陰翳礼讃の話をされた。俺は恥ずかしながらその時、陰翳礼讃を知らず、「インエイライさん」という中華系の人物の話をしているのだと思って会話を続けていた。美術に関わる人間なら当然知っているものとして、その人は陰翳礼讃というのはね、という前置きすら省いたのだと思う。
本屋で文庫本を買い、荷物に入れて、むこうで時間のある時に読んでいた。
読んだタイミングもあって、とても考えさせられた。そしてこの東京のツマラナイ風景を見ると陰翳礼讃の美意識は、加速度的に消失していったのだろうなあと思えた。
週末、妻と散歩をしながら、建物のデザイン、街のデザイン、看板のデザイン、駅前のデザイン、このくそみたいなデザインで構成された東京の風景に対して、思い付く限りの悪口を吐いた。別に妻がデザインした訳ではないのに、こんな愚痴みたいな事を強制的に聞かされては、たまったもんじゃなかっただろう。しかしこの、誰に対しても害のない、無難な風景を生み出し続けていたら、おしまいだと思ってしまう。もう既におしまいだとも思っているが。こんなことでも昨今は、たちまち「反日」思想か。ああそれが何よりおぞましい。身震いする程に。
こういう都市の景観は俺なんかは極極極少数派で、大多数の人間が享受していることなのだろう。
最近その大多数が受け入れているだろうことが嫌いなことが多い。嫌いというより、いけ好かんことが。
例えば今日も、電車の中で出入口の上のモニターで映し出されていた、「大人のエレベーター」とかいうビールのCMとかがいけ好かんし、おぞましい。なんともいえんイヤらしさがある。隣でまたそんな悪口を言っていると妻が、世の中にあるモノに対しての俺の受け口が瓢簞だと例えてきた。なるほど俺は瓢簞だ。入口が狭い。
逆に好きなものを考えてみる。イヤらしさのない照英とか、さかなクンなどの動物的なものだ。しかし照英や、さかなクンは大多数に受け入れられていそうだ。う〜ん…よくわからん。
帰国して数日経つ内にツマラナイ風景が徐々に当たり前の風景に変わりつつある。俺はその事に不安になり、頭の中から失いつつあるメキシコの記憶の風景を手繰るように、本を読んだり映画を観て、消したくない火を灯し続けている。「戦艦ポチョムキン」のエイゼンシュタイン監督の「メキシコ万歳」、ルイス・ブニュエル監督の「昇天峠」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「自由の幻想」「皆殺しの天使」「アンダルシアの犬」「忘れられた人々」…。
メキシコシティ郊外のさびしいロードサイドを想い出し、メキシコではないがアメリカン・ニューシネマの「バニシングポイント」に映るロードサイドと、主人公の首回りの淋しさに彼の地をむりやり重ね観る。
絵を描き、文章を書いて、未だに漂い浮遊しているメキシコの記憶を定着していかなければならない。
帰国し成田空港から京成線で都心にむけて走る車窓の日本の風景は全くツマラナイものに映る。日暮里駅で下車する。通勤時間帯に行き交う、頭の先からつま先まで黒一色の生気のないうつろな群衆。生まれて初めて海外へ行き、日本を見つめると、こうも脆弱で、画一で、幻想で、亡霊で、衛生的で清潔でツマラナイんだろうと感じる。
少し前に、ある人と話をしている時に、陰翳礼讃の話をされた。俺は恥ずかしながらその時、陰翳礼讃を知らず、「インエイライさん」という中華系の人物の話をしているのだと思って会話を続けていた。美術に関わる人間なら当然知っているものとして、その人は陰翳礼讃というのはね、という前置きすら省いたのだと思う。
本屋で文庫本を買い、荷物に入れて、むこうで時間のある時に読んでいた。
読んだタイミングもあって、とても考えさせられた。そしてこの東京のツマラナイ風景を見ると陰翳礼讃の美意識は、加速度的に消失していったのだろうなあと思えた。
週末、妻と散歩をしながら、建物のデザイン、街のデザイン、看板のデザイン、駅前のデザイン、このくそみたいなデザインで構成された東京の風景に対して、思い付く限りの悪口を吐いた。別に妻がデザインした訳ではないのに、こんな愚痴みたいな事を強制的に聞かされては、たまったもんじゃなかっただろう。しかしこの、誰に対しても害のない、無難な風景を生み出し続けていたら、おしまいだと思ってしまう。もう既におしまいだとも思っているが。こんなことでも昨今は、たちまち「反日」思想か。ああそれが何よりおぞましい。身震いする程に。
こういう都市の景観は俺なんかは極極極少数派で、大多数の人間が享受していることなのだろう。
最近その大多数が受け入れているだろうことが嫌いなことが多い。嫌いというより、いけ好かんことが。
例えば今日も、電車の中で出入口の上のモニターで映し出されていた、「大人のエレベーター」とかいうビールのCMとかがいけ好かんし、おぞましい。なんともいえんイヤらしさがある。隣でまたそんな悪口を言っていると妻が、世の中にあるモノに対しての俺の受け口が瓢簞だと例えてきた。なるほど俺は瓢簞だ。入口が狭い。
逆に好きなものを考えてみる。イヤらしさのない照英とか、さかなクンなどの動物的なものだ。しかし照英や、さかなクンは大多数に受け入れられていそうだ。う〜ん…よくわからん。
帰国して数日経つ内にツマラナイ風景が徐々に当たり前の風景に変わりつつある。俺はその事に不安になり、頭の中から失いつつあるメキシコの記憶の風景を手繰るように、本を読んだり映画を観て、消したくない火を灯し続けている。「戦艦ポチョムキン」のエイゼンシュタイン監督の「メキシコ万歳」、ルイス・ブニュエル監督の「昇天峠」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「自由の幻想」「皆殺しの天使」「アンダルシアの犬」「忘れられた人々」…。
メキシコシティ郊外のさびしいロードサイドを想い出し、メキシコではないがアメリカン・ニューシネマの「バニシングポイント」に映るロードサイドと、主人公の首回りの淋しさに彼の地をむりやり重ね観る。
絵を描き、文章を書いて、未だに漂い浮遊しているメキシコの記憶を定着していかなければならない。
by koyamamasayoshi
| 2016-12-06 21:35
| 日記
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