2022/10/19



昨日45ヶ月かけて書いていた小説が書きあがった。妻に一番に読ませた。

4時間くらいかけて読んでくれて、反応もあったのでうれしかった。

「燈歌譜」という題のその小説は、さまざまな想いを詰め込んで書いた。


わたしが外へ出て、始めて現地において長期滞在制作をした小豆島が物語の舞台になっている。

そこで起きた出来事や、そこでの記憶を、小説という形で保管したいとの考えが先ずあった。

それはちょうど、おだやかな波打ち際に漂着した繊細な貝殻やガラス片や、どこから流れて来たかわからない不思議なカタチをしたものたち、そしてギラギラと広い海に降りそそぐ、真夏の光線すらも瓶詰めにしてしまいたいような気持ちに似ている。

何度も書き直し、一度完成させ、そして現地に赴き、島の方々と懐かしい話をしながら取材し、もう一度完成させて、また大幅に変更して、書き直し、行きつ戻りつしながらもやっと完成させた。

最後の方では息切れ気味になり、はやくこの苦しみから脱したいと片隅で思いながら書いていた。


それでもなんとか終った。

これを活字にして本という装いにした折には、小豆島の親しいひとに贈りたいとおもう。

わたしとしてはわたしにとっての、松本清張の「或る小倉日記伝」をやったつもりである。


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春。地の底に這いつくばり、塵を舐めるような心身のどん底にあって、

頭の中が空洞のようにぽっかりとして、何も言葉が浮かばない。何の音もない。色もない。

何も想像できなかった。味もなかったのかもしれない。


しかしその時その敗北感が、わたしにはなぜか虫や植物、空を流れる雲と気持ちが通じたと錯覚したのだ。

ああダンゴムシやアリンコはこんな景色を眺めていたのだなあ。


わたしは行けるところまで出掛け、目に見えるものをあえて呟いて、小さな手帳に書き込んで歩いていた。


………………

米粒を頬張りたい水音 じいさんとばあさんの姿形の遊戯盤 

竹と桜 空を切り抜く

桜の触手 川の流れを設計す

白黒の合わせ鏡の婆さん二人 水無瀬橋 あばら骨

救急車に手を振る 狂少女

高山地帯の民族の 険しい眼差しを 八王子の子どもにもあるんだぜ

パウルクレーのガラス カッティングマットの上は 理容の文字

………………


カラッポに近いからだの中から、出てくるに任せて言葉を吐き出し続けた。

表現以前の心象スケッチをしていたのだ。そうしたことで油を差したようにゆっくりと頭の中の何かが動き出した。むさぼるように猛烈な勢いで文学作品にふれ、にわかに自分でも書き始めたのだった。


文章に真剣に取り組んでみると、この文字だけの制約のなかで、何を伝えるか、どう伝えるか、伝わりやすいようにするにはどうすれば良いかを常に考えた。

あまたの文豪の中から気が合いそうな作者を選んで、読み耽った。

それはさびしい岬の上、それとも深い森の中に一軒ポツンとあるその作者の家の中に会いに行き、昔語りを聴くようなものだった。

なんて小説家とはどん底を舌で舐めた人間たちなのだと、わたしは泣き出したいぐらい握手をした。



小説、あるいは文章を書く行為が、いまとても良いように作用している。

たとえば立体作品を作る時に、作ろうとしている作品の背景を考えることが出来るようになった。

コイツはこのために存在している。コイツはこっちを向いている必要がある……と。


ハリボテの像を作るにしても、腕に乗っかる意志が何処にむかっているかハッキリしないと、何処にも届き得ないただ環境破壊ゴミを作っているのとかわらない。わたしの作品がそうではないとも言い切れないところもあるが


ともかく、そうして背景を想像してから作ることは私にとっては大切だと気づいた。


時には得られるものが断片でしかないものもある。そんな時も、その間の足りない部分を補足してまとめてやれば、自然と全体像があぶり出しのように浮かび上がってくるので、それをただ見てればいいことにも気がついたのだった。


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昨年秋、新潟に2ヶ月間滞在していた。新潟市内の海沿いの、松林が広がる砂丘地帯にわたしはいた。その松林は江戸時代に、海沿いの途方もない距離に植樹されたようで、たいへん鬱蒼としていた。

わたしはその松林の中を毎朝通って、美しい境内の護国神社まで散歩していた。わたしはまだ薄暗いような松林の中を歩きながら、坂口安吾や野坂昭如が授業をさぼってこんなところで昼寝をして転がっていたことだろうなあと想像していた。わたしはそれまで坂口安吾の作品にふれたことがなく、関心もまるでなかった訳だが、滞在中に折角だからと安吾記念館を訪ねてみたことがある。

そのとき、安吾が晩年に新潟の「毒消し」について徹底的に取材をした内容の企画展がたまたまやっていた。「毒消し」とは富山の薬売りのように、かつて新潟のあるひとつの村で勃興した薬売りであり、それを安吾がリサーチしている内容であった。

わたしはなんとなく古くさい因習や風俗、インチキ臭いものを、きっと先鋭的な戦後の文筆家は毛嫌いしているだろうと思っていただけに、そこに着眼点を持っていた坂口安吾がたいへん意外であると共に興味を持ち始めた。

代表的な作品を次々に読み、その何かを突き放すような腕力のある文体に惹き込まれ、触発されたところがある。


わたしが文章でキモチを残したいと思ったこととして、もうひとつ、祖母の日記を発見したことがある。

一昨年、故郷で作品制作をした時に、大々的に母屋の掃除をした。棚の奥、奥の奥のほうに大学ノート45冊と巾着袋が見つかった。巾着袋の中身は腕時計と、シソを干して粉々にしたユカリという名のふりかけがビニール袋パンパンに詰まったものが入っていた。

それが形見であったのだろうか。

こんなふうに掃除などする気にならなければ、気づかないままに一緒くたに捨てられていたに違いない。


祖母は誰かに残そうとしたのか、そうではないのか、とにかくそれらを奥のほうへ仕舞ってあった。母屋に住む母もまったくその存在を知らないでいた。

大学ノートに書いてある日記をわたしはまだすべてを読んではいない。すべてを読むには覚悟というか、向き合うこころがまだ整っていなかった。ただ、チラチラとそこに書かれていたことは少し読んだ。その内容は祖母が亡くなる前の日々をふるえるような字で淡々と書いた日記である。


それは祖母がこの世に残した言葉、文字。

祖母がこの世に、そしてこの風土の中に確かに居たという証明をしているようで、切々としたものがあった。

わたしは、誰に見とめられることのないようなそうした言葉を、ことの他愛する。

そしてわたしもそのような言葉や文章を残したいと思った。


さいわいにしてわたしは、文章を書くという新たなものを発見した。

広告チラシの裏面に描くたわいない絵のように、紙の上に文字を記していきたいと思いはじめている。

いままで、自分のライフワークは何であるかことあるごとに考え続けてきた。

油絵であったり、版画であったり、小物の小品であったりしたわけだが、いまも断続的に継続はしているものの、どれも単発的で長く続かない。すぐ飽きてしまうのだ。

面倒臭くなるというわけではなく、こんなこと自分がやらなくても良いのではないかという考えが覆いはじめるのだ。


それではなぜ文章が書いていけそうか考えると、わたし自身、映画が好きだというところが大きい。実際映画を撮るには相当な労力と、機材と金がかかるわけだが、文章を書くにはペンと紙さえあればよい。びんぼうな私にとってこれ以上ないほど始めやすく、そして続けていけそうである。

紙の中で映画を作ればよいと考えたのだ。

紙の中に自分の残したい伝えたい言葉を練り込めばよいのだ。


ようやくわたしにとってのライフワークを見つけたような気がする。

それをひそやかに続けていこうと思う。活字にする目標をもってどんどん書いていこうと思う。


ブログを10年近くやってきた。はじめの数年の日記は消失してもうない。

ブログは秘匿な日記ではなく、人の目に晒される日記なので、こころの中の本来のおぞましいもの、誰かにたいしての悪態などは引っ込めて書いていないつもりである。

そんな都合のいいことばかり書いてある中途半端な日記が、誰に向かって書いているものなのか時々わからなくなる。

いや結局いまもわからない。

そもそもわたしは花にたとえるならば、咲こう咲こうという力よりも、閉じていよう、蕾のままでいようとする力が強い。まあそれは言い過ぎで、その力は半々に拮抗している。


わたしは祖母の日記のように、見返られることなどないが、ありのままを記す日記や文章を書きたいと思い、このブログの日記を止めることにする。

(*ただそれも何事も長続きしないうえに、未練たらしい私のことだから、しれっとまた書き出しているのかもしれないが。)



2022/10/19_a0232906_16173152.jpeg


晩夏の土庄港。連絡船に乗船するわたしの車にむかって、見送りに来た島の男は離れたところで軽トラックのヘッドライトを明滅させて合図を送った。わたしは連絡船に乗り込む車のルームミラーでその灯りを見ながら10年という歳月をおもった。


わたしの10年、その男の10…………






# by koyamamasayoshi | 2023-04-15 17:18 | 日記

背中

背中_a0232906_21215471.png

# by koyamamasayoshi | 2022-12-14 21:22 | 日記

2022/8/1


昼前に妻と岳母と3人で御陵前の蕎麦屋に行く。炎天下、ぶっ倒れないか心配になるくらい暑い。わたしは以前と同じシャキシャキ大根蕎麦を注文した。とても美味しかった。

帰りは桜並木の木陰の下を歩いて帰る。桜の木にこびりついていた蝉の抜け殻を10個ほど摘んでコロにお土産として持って帰る。

けれどもコロは全く反応を示すことはなかった。


# by koyamamasayoshi | 2022-08-01 23:36 | 日記

2022/7/31


汗に濡れる女 水をのむ ホームに風がわたる


9時ごろ横浜のシルク博物館へ出掛ける。蚕に関する展示資料が豊富で見ごたえがあった。3齢と5齢の蚕が桑を実際に食べている姿を間近に見る事が出来てたいへんよかった。

売店で「描かれた養蚕」という過去のカタログ一冊と、繭玉を買った。


ついでに日本郵船の博物館にも立ち寄る。企画展では文芸譚をやっていた。

内田百閒の若き姿の写真を見ると奥田瑛二のような男前の顔であることがわかった。

桜木町駅まで歩いて行き、横浜線で帰る。八王子みなみ野駅で途中下車して、丸亀製麺で遅い昼食を摂る。今日はとても暑くじりじり肌がやけた。


# by koyamamasayoshi | 2022-07-31 23:35 | 日記

2022/7/30


8時、バスに乗って片倉あたりで下車し道了堂に登る。

木々に囲まれていて、夏の強い陽射しを遮っていて涼しいはずなのに、蒸すように息苦しい。絹の道を鑓水方面へ下っていく。じめじめした道で蚊が多い。

梢の先ではすがすがしい夏の青空が広がっている。

絹の道養蚕資料館に入り養蚕について勉強する。

入館受付のところに、シルク博物館の図録があって欲しかったが売ってくれなかった。

いずれ近いうちに横浜のシルク博物館にもいってみたいと思う。

鑓水に古い養蚕農家の建屋があるらしく、適当にぶらぶらと歩いて探すも見つけられなかった。そのかわりに、竹垣に覆われた広い敷地の中が鬱蒼とした森の中で、その木々の間から大きな昔風の邸宅が見えた。竹垣にはタヌキ注意の可愛らしい貼り紙が貼ってあった。


養蚕農家の建物はあきらめて多摩美の前を過ぎ、大きな交差点のバス停でバスを待ち八王子まで戻る。壱発ラーメンを食べて別のバスを乗り継いで帰宅する。


新潟で金物屋をめぐった経験を、ひとつ小説にしてみようと思う。

あったことを並び立ててみても、読む方には疲れるだけなような気がする。

ただ目線は自分自身で良い気がする。



閉じようとする花を無理に押し開いて

もう一花 漲り咲かせる 


カイコのような白い女の下肢

きように生きれぬのだから同じことを繰り返し死ぬだろう


# by koyamamasayoshi | 2022-07-30 23:34 | 日記


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by Koyama Shintoku

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