妻有鷲眼記⑼ 海老と東山

4月下旬、作業が一段落して知らない道を開拓しようと夕暮れに車を走らせた。

松代の城山の途中、十日町方面と松之山方面の分岐を左折して十日町方面に向かった。


松代十日町間を北越急行線ではたった一駅の区間なのに、車では国道253号を利用して田沢トンネル、犬伏トンネル、薬師トンネル、名ヶ山トンネル、鐙坂トンネル、吉田トンネルと幾つも通り抜けて十日町の市街地へ出る。

山々のどてっ腹を貫く長い長いトンネルを利用するたびに、俺をモグラの気分にさせた。

毎日、地図やナビを眺めては、この味気ない車窓以外の道を探していた。



城山を左折した先の池之端には河岸段丘の高低差が見事な美しい棚田が点在している。

河岸段丘の高い位置で川をはさんで橋が結ばれている。

橋の袂からむこうの袂へ辿り着くのに、この宙に浮く道を利用しなかったら半日もかかりそうだ。その長い橋の向こうから一輪車を押したお爺さんが横風を受けて畑仕事から帰ってくるのがわかる。



そこからどこまで進んだだろう、陽が沈み視界が闇に支配されつつある。

不慣れな山道に不安を覚えつつも、ヘッドライトの先の濃い霧に幻想的なものを感じる。やがてあたりは真っ暗に塗り込められ、車は闇の虜になる。

そこに2、3の人家がヘッドライトの先にみえる。

そのうちの一軒の小さなガラス窓からは暖色の灯りが洩れ、山村のほくほくとしたあたたかな営みを想像させる。

かなり山に入り込んだ僻地に人が暮らしている。

山道沿いの看板を見て、どうやら海老(かいろう)というところへ来たようだ。その先で十日町と東山という集落への分岐に辿り着く。



十日町方面へは冬期通行止めの柵が入口を塞いでいた。東山方面へも、すこし進んだところで通行止めの柵が入口を塞いでいた。

この先どこへも抜けられないと察して池之端まで引き返す途中、下山というところで犬伏方面に抜ける道があることに気が付いたが、ここでも入口に冬期通行止めの柵が塞がっていた。

結局どこへも抜けられず松代城山へと戻った。



翌日、十日町方面から、昨日の海老の先がどこまで続いているのか気になり確認に向かった。

信濃川西岸の高島から「鉢の石仏」のある鉢を経由して名ヶ山へ登った点に海老への県道427号の入口がある。しかし残念ながら冬期通行止めの柵が塞がっている。


後に調べてみてわかることだが、この県道427号の名ヶ山から海老までの封鎖されている間の道は激狭険道としてバイク乗り自転車乗りの間では知られているようだ。

午後の早い時間に作業を切り上げて、再び松代側から海老へ向かった。



松代から十日町へ向かう国道253号の田沢トンネルに入る手前に田沢集落がある。昨日、下山からの入口は柵で塞がれていたがどこまで行けるか田沢側から入ってみる。坂道を登り途中、桜の木の間からUの字にはっきり蛇行している川が眼下に見える。そのUの字の内側にステージのような美しい田んぼがくっきりと周囲から浮かび上がって存在している。

この田沢集落はこじんまりとした集落だが、かつて日本のどこにでもあった農村の風景を凝縮したコンパクトな懐かしさを漂わせながらいま尚息づいていると感じられた。


道を登って進んで行くが特に道を塞ぐ柵は無かった。

道の先々に小さな棚田が点在し、その内の水が張った一枚に色鮮やかな羽根の鳥が静かに浮かんでいた。2羽のオシドリだ。

止めた車の窓から凝視すると、ツーっと背を向けて奥へ流れて行った。

狭い道に軽トラックの対向車が来た。ギリギリですれ違い、しばらく行った先で昨日見た通行止めの柵が背中を向けて道の真ん中に見えた。

地元の農家さんはその柵の横から進入して、柵の内にある田畑で農作業をはじめているようだ。


昨日は薄暗くて良く見えなかったが海老に向かう途中に真田というごくごく小さな集落があった。人家がどのくらいあったか思い出せない。そこの集落に入り込んだ先には、この上なく美しい棚田があったと記憶している。それは高台から見下ろすような棚田だったと思う。見栄えの美しさだけではない。過酷な自然のただ中にポツンと取り残されるようにある棚田の存在に山中に暮らす人間の生命力をひしひしと感じたのだった。


海老に着く手前で土木業者と思われる軽トラックとすれ違う。昨日と今日で、この山道ですれ違った車はこの軽トラックとオシドリのあたりですれ違った軽トラックの2台のみ。人家があるので郵便配達もやって来るだろうが、寂しい僻村ではほとんど人と行き会わない。

まもなく海老の分岐に着いた。塞がれている柵の横を通り抜けて日の射さない雪溜まりがところどころ残る薄暗い道を十日町方面(名ヶ山)へ進んだ。



曲がりくねった道を行くと見晴らしの良いところへ出た。そこに石碑が建てられていたが何と書かれているか確認しなかった。

雨が降ったのだろうか、行く先の道が濡れて濃い色をしている。それは、道の脇から溜った雨水が沁み出して道を濡らしているからだった。

徐々に道幅が狭くなり、道幅が車一台の車幅と同じになったくらいで気が付いた。右側が断崖絶壁になっている。しかもなんとガードレールがない!

破損して無くなっているのではなく、元々存在していない道らしい。

前方をみるとこんな酷い道がずっと先までくねくねと岩壁伝いに続いている。

おい!!これ、対向車がきたらどうすんだ!!


道が濡れている上に左側の岩肌からごろごろ転がり出たと思われる石が散乱している。その上をタイヤがガタガタいわせて極めて危なっかしい。

濡れた路面には自分の車の轍ではない跡が前方に続いている。

これ誰か行ってんだよな。大丈夫か!?行けるのか?



500mくらい進んだ道の先に絶望の光景をみる。

なんと左側の岩壁が崩れ土砂が行く手を完全に阻んでいた。そしてそこに一台の重機が一緒に佇んですべてを物語っていた。



あー、何てことだ。…どうしよう。

どうしようっつったって戻るしかないよなあ。

ここに居たってしょうがないし。



バックにギアを入れて後方を見ながらゆっくりゆっくり戻る。

必死の二文字しかない。

さっき見ていた、誘い込む罠のような轍はここに重機を運んだあの軽トラの轍だったのだ。


そんなことに気付いたところで、とりあえず今だ。

左側の路肩の岩壁に車体を擦り付けてでもいい。

とにかく右側の奈落に落ちないように神経を研ぎすまし意識を集中させる。


滞在してまだ3日目というのに、なんて目に遭うんだ。

まだ何も作っていないぞ。落ちたら東京から死にに来たようなもんじゃないか。

こんなところで死ねるか!


後方を見るとまだまだガードレールのないおぞましい道が続いている。

展開出来るような幅もまだ見えて来ない。

慎重に…油断しないで…ゆっくり…。ハンドルを握りながらそう口に出して運転した。



永いように感じたが実際はそうでもなかったのかもしれない。


俺は地獄のような道から生還した。

全身全霊が風船の空気が抜けるように安堵した。

それほど恐ろしいところだった。




その後、滞在する中で地元の方にこの道の話をすると、あの道は地元の人間でも危なっかしくて通らないと語り、かつてバスが通っていたなんて嘘みたいな話をする人もあった。

そして海老の分岐のあの激挟険道とは別の道、あの先にある東山という集落のことを想っていた。


集落ごとの道の草刈りのことをこのあたりでは道普請という。

東山へ通じる道は東山の三軒の家の者だけで道普請をするが草刈り機ではなくて、隅々まで綺麗に手で道普請するんだと、別の集落の人物が教えてくれた。



結局訪れることのなかった東山。

田舎の人間が東山は田舎と語る。それは間違いなく僻地中の僻地だろう。

日本屈指の豪雪地帯の山また山の奥で、三軒の家はどのような暮らしをしているのだろうか。


夕暮れの田んぼで、はざかけをしている誠実で働き者の農家の真っ黒いシルエットが3人思い浮かぶ。冬の暮らしは俺には到底想像すら出来ない。


# by koyamamasayoshi | 2018-10-11 00:40 | 日記

妻有鷲眼記⑸ 眠る建物

非常口の厚い扉を開くと、舞台袖から栗色のステージが仮設に引いた蛍光灯の灯りを受けて輝いているのが見える。

靴音をホールに響かせながら舞台中央まで歩くと、真紅のシートに白い背もたれカバーを掛けた座席が舞台上のこちらを静かに見上げている光景が目の前に広がる。

座席は最前列から後方にむけて一段ずつ上がっていき最後列の座席は舞台上の目の高さと同じくらいになっている。

その後ろには表面が畝のように波打つ立体的な革張りの観音開きの客用扉が2ヶ所ある。

ホール左右の上方には無機質なコンクリート壁のトーチカのような四角い穴から照明ライトが舞台に向けて照準をあわせて狙っている。

客用出入口の上方にもトーチカのような四角い暗い窓があるがそこは指令・調整室だ。

高いホールの天井は階段状の座席に対応するように、段々状の構造になっている。木合板で覆われたその構造は、アナログな宇宙戦艦の船体を想わせ、客席が並ぶ器の上にカポっと着陸しているようだ。天井の空気孔の丸い穴も宇宙船の丸窓に見えてくる。

舞台の上方にはバトンが舞台袖のロープに繋がって浮いている。

どのロープがどのバトンに対応しているのか分からないほどいくつも浮かんでいる。

袖には赤と黒の長い舞台幕が、暗い天井から滝のように上から下へぶら下がっている。

舞台の隅にはプラスチックのバケツが5つも6つも並んで置いてあり、上空でビニールシートが受けている雨漏りの水滴を引き受けている。




6月上旬、老朽化により昨年閉館したこの市民会館のホール、舞台の上で作品制作をさせてもらうことになった。

コンサートホールの構造であるため、外の光は遮り、中の音を漏らすこともない、この上なく絶好な制作環境だ。

役場の担当者と芸術祭制作スタッフしか使用していることを知らないこの場所は、街にありながらひとの寄りつかない鍾乳洞のように静寂の中に沈んでいる。

一枚扉を隔てた外と内は場所も時間も地続きに思えない。そんな異空間へと通じる扉の先の大きな洞穴の中で、修行僧のように密やかに自分と作品と向き合い、孤絶と向き合い制作にとりかかっていた。




工具、作業台、作品資材、杉の皮、それに市民会館入口に置いてある大きな革のソファーとテーブルを運び込むと舞台の上は途端にモノで埋まった。


舞台、上手前方にソファーやテーブルなどをオフィスらしく配置し、上手後方には工具を使用しやすいように並べた。

その手前の工具が届きやすい位置に桜の木の大きな作業台を置いた。

舞台中央に5月下旬まで進めていた作品を再び組み上げていく。

下手前方は金物作業のスペースで、下手後方の壁には杉の大木からペロンと剥いた杉皮を重ねて立てかけている。


この建物の中で作品展示する訳ではないにもかかわらず、わざわざ舞台下に降り最後列まで走って行って舞台セットのように客席から見える位置を何度も確認し配置し直した。

舞台の上で制作するという滅多にない特殊な情況下で、嫌でも舞台下に広がる528席の客席が目に入る。

このすべての席に埋まった目に見えないお客さんを想像し、その視線を意識しながら制作したい気分になったのだ。

そのため舞台の一番手前には「作業中」の看板を、演目台のように置いてみたりしていた。

制作の作業内容によって舞台上のレイアウトはその都度変わった。




ここへ作業場を移してから3日たった頃、作業場の厚い扉の外から笛の音が聞こえてきた。

笛の練習をするお爺さんがやって来るかもしれないと役場の担当者が事前に言っていたことを思い出して、このことかと理解した。

話し掛けてみようと思い、扉の取っ手に手を掛けようとすると、ガコンと先に扉が開き、扉の間からお爺さんが顔を出した。

不意に顔を出したので俺はあたふたしながらもこの建物の中で作品制作している旨を説明した。

お爺さんは毎日この旧市民会館の非常口の表で笛の練習をしているが2、3日前からひとが出入りしているのが気になっていたらしい。そこで今日は扉のノブを回したら開いたのでお爺さんもビックリしたようだ。


中へ招き入れ、ソファーに座ってもらい、お茶を淹れ、土地のことを尋ねた。

昔と今の街の様子、むかしお爺さんが働いていた仕事のこと、笛のこと、この市民会館のこと。

お爺さんは、お能の笛を吹いており、かつてこの市民会館の舞台に上がって吹いたことがあると言って懐かしんだ。

ひとつ吹いて欲しいとリクエストすると、ものが溢れている舞台の中央に正座して誰もいない客席に向かって吹き始めた。


俺は笛のことはまったく無知で良し悪しなどわからない。ただ目を瞑り静かに聴き入る。

お爺さんが吹き始めて直ぐに笛の音に続く反響音が不思議なことに気が付いた。

笛の乾いた音の後にビビビビンビビビビンと弦を弾くような音がホール中に響いているのだ。

笛と口との微妙な接点でこの弦を弾くようなノイズ音がしているのかとも思ったが、やはり建物が笛の音に呼応するように発しているようだった。


吹き終えたお爺さんに何故このような弦を弾く音がするのか尋ねてみたが

「私にはそういった音は聴こえないが、それはあんたさんの感性がいいということでしょう」と期せずして褒められたが、その原因はわからなかった。



今年、冬が来る前にこの旧市民会館は取り壊されることが決まっている。

アスファルトがところどころ捲れてひび割れだらけの広い駐車場を挟んで、スキージャンプの滑走台のような屋根のある体育館が隣にある。

お爺さんの話では駐車場、体育館、この旧市民会館をまとめた広大な更地跡に屋内児童公園施設が出来るらしい。

ここの住所は学校町といい、かつてお爺さんが通った小学校があり、すこし坂道を登った先の丘の上に現在の小学校がある。

お爺さんが小学校の時というから60年くらい前の話だろうか。丘の上へ小学校が引っ越す時に、教室の自分の机を持ってみんなして坂道を登ったと懐かしそうに話した。

丘の下から坂道を登下校する子どもたちの列を朝夕見かける。

屋内児童公園施設が出来れば、下校の途中にそこに寄って陽が暮れるまで遊べることだろう。



冬前に姿を消す、このほとんど「死に体」の市民会館の外の駐車場は白昼の死角で、運送屋やサラリーマンたちがやって来て車の中でサボっている。

夏場の殺人的な陽射しを避けて、体育館の裏と市民会館の非常口付近に出来た日影に車を突っ込んで車内で寝ている。

夕方になると駐車場のいつもの場所にキャンピングカーのようなマイクロバスがやって来る。車の後方にはおそらく寝具を備えていると思われ、朝になるとどこかに出勤して行くようだ。


死に体だからこそポッカリと出来たこの街のオアシスに、安息を求めてそれぞれの人生が交錯している。

笛のお爺さんもその中のひとりだろう。



舞台の上の作業場の唯一の欠点は水場が無いことだった。そのためトイレをどこでするかが一大事だった。

隣の体育館の鍵も借りていたので、体育館まで走って行って、トイレを使っていたが、大体その前にホームセンターやコンビニなど外に出たついでに済ませるという習慣が次第に身についてきた。

トイレ以外では、手や筆を洗ったり、自炊したりする水は、宿舎で汲んだポリタンクの水で対応した。

ある日、非常口付近に並べて置いているポリタンクに上に白っぽい粉が広範囲にふりかかっていることに気が付いた。

埃にしては白い、なんだろうと頭上を見上げるとコンクリートの壁の縁がボロボロに脆く崩れている。



この白い粉のような壁の砂が、モロモロと静かに、しかし休むこと無くさらさらと落ち続け、やがて大きな砂の山が出来たと同時にこの建物は死ぬだろうなと想像した。

それは大きな砂時計を想わせた。

俺はその砂時計の中に入り込んで、建物の死のカウントダウンの砂をパラパラと頭に受けながら作品制作を続けているように感じた。




市民会館で制作をはじめてから3週間、お爺さんは毎日作業場にやって来た。


3週間目に意を決して「すみませんが少し遠慮してもらえますか」と告げた。

あっさり「はい」と一言いいお爺さんは帰っていった。

不人情と思われようと構わない。

お爺さんの居場所を奪いさったようで申し訳ないが、とにかくお茶を啜って談笑し笛の音の良し悪しを聴いていられる程の悠長な時間と心のゆとりが全くなくなってしまった。

作品納期に追われ作業は熾烈を極め、些細なことでも煩わしく感じたのだ。


その後、非常口の扉の外で笛の音が聴こえる日もあったが、もはや構っていられなかった。





目まぐるしい作業と孤独の中で自分でも気付く程、独り言が酷くなり、アホだ馬鹿だメンドクセーと罵詈雑言をホール中に発しつつも、7月下旬何とか作品を間に合わすことが出来た。

いつ迷い込んだのかホール天井から聞こえていたスズメの鳴き声も気付かないうちに聞かなくなり飛び去って行ったようだ。

白い砂は相変わらず舞台のあちこちで粉雪みたいに降っている。

使わない工具などは雪を被ったように覆われた。





9月中旬、作業場の片付けをしているところへお爺さんがやって来た。

ソファーに座ってもらい、お茶を淹れ、お話をした。

お爺さんは、十日町へ来た記念にこれを差し上げますといい茶封筒を差し出した。封筒の中身は、ティッシュに包まった蓮の種と、種の説明を書いた紙切れが入っていた。

「大賀ハスといって、偉い先生が発見したうんと昔の蓮の種です。」

「ありがとうございます。何処かに植えてみます。」

俺は心から感謝の気持ちを伝えた。


「最期に吹かせてもらおうかな」

そう言ってお爺さんは舞台の中央に正座して息を整えた。

俺はお爺さんの姿をじっと見ながら笛の音を聴いた。


ホール中を反響したあのビビビビンという弦の音はしなかった。

ああ、ホールが反応しなくなったのだと悟り、笛の音は安らかに眠りにつく建物の鎮魂歌となったと感じた。





十日町を去る日。

掃除が終わり何もないステージの中央に立ち、

「お世話になりました」と客席とホールに向かって頭を下げた。

半年近い滞在生活で忘れ難い記憶はこの旧市民会館の日々だった。

あとのすべては淡い記憶だ。



表に出て、重い扉を閉めるとガコンという音がホールの闇の中に吸い込まれていった。



# by koyamamasayoshi | 2018-10-08 03:59 | 日記

妻有鷲眼記⑷ 種の記憶

妻有に滞在して作品制作の傍ら野菜を種から育てていた。


初心者でも育てられそうな葉もの野菜を数種類と、中玉、小玉のトマトの種を選んだ。

今回の作品「狗鷲庵(いぬわしあん)」は農作物の害鳥害獣による被害対策をテーマにしているので、実際に農作物を育てることで農家さんの気持ちをすこしでもわかろうと考えた。



4月下旬、残雪が疎らに残る棚田を目の前に、

四本脚の蜘蛛もような形の白い建物の下で作品制作をしていた。

目の前の棚田との間に小川が流れていて、そこからはカジカガエルが鳴き、周囲の田んぼからはアオガエルが鳴いている。

スズメ、セキレイ、アオジが原っぱで戯れて、上空ではヒョロヒョロとトンビが旋回している。

サギやカワウは目の前を頻繁に出掛けたり帰ってきたりしている。

一度、目の前の森からタカが姿を見せて、この白い蜘蛛の建物にとまっていたこともあった。


この蜘蛛の腹の下で作業をしていると、季節の移り変わりがゆっくりとだが感じられた。

弱々しい種のポッドを、あたかもこの蜘蛛が小さな命を植え付けるようにこの蜘蛛の腹の下の日なたに並べた。

作業の傍らでそれらの成長を見守った。


棚田の山から霧が降りてきて蜘蛛の脚と脚の間に吹き込む。

日中も冷え込む山間部では成長が遅いように思われたが、2週間目になる頃にようやく若芽が、頭に種の殻を冠って顔を出した。

小さな命が生きようとし始めている。そのことに純粋に感動する。


原っぱとの境にポッドを並べているため、足元に気付かない観光客に踏んづけられたり、子どもに泥団子のようにぐちゃぐちゃにおもちゃにされたりと哀しいことも起きたが、受難を乗り越え成長した苗たちをやっとプランターに移し替えるときをむかえた。


密集したままの株は栄養分を奪い合って成長に悪影響なので、生育の遅い株を抜いて一本化する「間引き」をしなければならないらしいが、その生育の遅い株にさえ感情移入してしまって話し掛けているほどなので、そんなかわいそうなことは出来なかった。


天気のいい日は蜘蛛の腹の下から陽のあたるところまで30、40個もあるプランターを引きずり出し、雨の日は腹の下の雨が吹き込まない場所までプランターを引込んだ。


5月下旬、作業場の引っ越しに伴い、プランター達も引っ越しせざる終えなくなった。しかし次の作業場は街の方にあり、プランターが置けるような場所がない上に作業場に水が通っていないので一緒に連れて行くことが出来ない。

そこで、宿舎として利用している青少年研修センターの裏庭に、管理人の許可を得てビニールハウスを建てることにした。


高さ2m、幅2m、長さ4mの大きさを想定し、周辺の草をあらかた毟ってから、スコップを突き立てて地中に縦横無尽に張りめぐっている蔓や根っこをひっくり返して叩っ斬る。

拳よりも大きな石も泥土に混じって埋まっている。それを放り出しつつおこした地面を平にする。

そこへ赤レンガを並べその上へ、狗鷲庵で出た残材、余り材で作ったビニールハウスを建てた。


雨風に弱いトマトを優先的にビニールハウスの中へ入れ、入りきらない赤紫蘇のプランターはビニールハウスの外へ並べた。



毎朝、街の作業場へ出掛ける前にハウスのトマトらに水を遣りつつ、わき芽をそのままにしておくと実や株の生育に影響があるというので、見つけたら指で折って取り除いていた。

そのわき芽を観察すると、どのトマトも一番最初に着く花房の付け根から出て来ていることに気がついた。なぜおなじところから出るのだろう。


植物は隣に親が居て、教育を受けながら育っていない。わき芽を出す位置だって周りから教わっていない。

ということは、その知恵と意識をあの小さな種が記憶し受け継いでいるということになる。


その事を思い付いた瞬間、驚愕しこの地球に存在するすべての植物が尊く思えた。

紫蘇の種は目糞ほど小さいのだ。その中に先祖の記憶が継承されている。9月下旬十日町を去る時に、知り合いになったお爺さんから貰った大賀ハスの種にいたっては2000年以上むかしの太古の記憶を宿しているのだ。

季節を知っていて、花を咲かせ、実を着ける時期を知っている。

人間の知らないところで植物たちの悠久の意識が存在している。

はじめて野菜を育ててその事に気が付いた。



ハウスを建ててからオニヤンマや青白いトンボ、クマバチ、スズメバチ、バッタ、アオガエルなどさまざまな虫や動物が訪ねてくる。ハチは花房の交配を手伝い、アオガエルはジョウロの水を避け、わさわさと育った赤紫蘇の葉っぱ伝いに逃げ回って遊んでいる。それとも葉っぱに付いた虫を食べてくれていたのかな。

はじめて気付いたことのついでで言えばバッタの排便方法である。

目の高さにバッタが居たので観察していると、チューブから歯磨き粉を出すように意気んだ尻からニュッと円筒形のクソが出現し、それを後ろ脚でチョイチョイとクソを引きはがすのだ。



日は経ちパクチーは食べるのが追いつかないほど成長し、焼きそばやトルティーヤの中に入れて食べた。バジルや大葉も収穫しパスタなどに入れていたが、パクチーもバジルも大葉も全部薬味であり、それだけでバクバク食べるものではないことに気付いた頃には盛大に成長していた。

赤紫蘇は100株くらい育て、4、5回にわけて寸胴鍋で煮て、すべて赤紫蘇ジュースに変えた。2Lペットボトル10本分作り、自分で飲んだり、食べきれないバジルや大葉を付けてひとにあげたりした。


トマトもピンポン玉大の実を着け始めた。自分で育てた実は格別甘く感じた。



7月下旬、20個ほどあるトマトのプランターの中から半数のプランターを選び、街の美術館に展示する自身の作品の中へ搬入する。普段は20分もかからない宿舎から街までを、主要道を避け山道、農耕車道の回り道をダラダラと徐行で1時間半かけて軽トラで運び込んだ。荷台に載せた娘を街へ嫁入りさせるようなものだ。

大きく色付いた実を見て、街で知り合った農家さんに、良く育てたねと褒めてもらった。



8月上旬、ビニールハウスのある宿舎から別の宿舎に移らなければならなくなった。ハウスの野菜の面倒を見たかったので残りたいとごねたが聞き届けられなかった。


宿舎の掃除をされている女性に、どうか面倒を見てもらえないかと相談すると引き受けていただけた。

女性は、フェデリコ・フェリーニの「道」みたいですね。といった。

訊くと、エピローグでジェルソミーナが育てていたトマトの苗を街のひとに託して街を去って行くシーンを思い出しました。という。


そんな場面あったか、俺には全く思い出せなかったが、気持ちを受け取ってもらえたようでとても嬉しかった。





9月中旬、ビニールハウスを撤去する。

何もないその跡に、プランターから移したトマトと大葉を一株ずつ植えた。


おそらく冬を越えられないだろう。

それでも彼らの種が、あの日、軽トラで通った山道や、俺の作った作品を、奮闘していた日々を記憶して未来に伝えてくれるのではないかと、淡い期待を抱いている。









# by koyamamasayoshi | 2018-10-03 19:12 | 日記

妻有鷲眼記⑶ 里山礼讃

『里山』はどこにあるだろう。

考えてみると『里山』は、都会に住み田舎暮らしに憧れを抱く暮らしむきに余裕のある方々の頭の中と、オーガニック食を全面に押し出し売りにした食品業界で使われる〈めしうまワード〉として存在しているように思われる。

いま東京で住んでいる家の近所のショッピングモールのフードコートの名前の冠にも『里山』の言葉が使われている。

もし田舎で『里山』の文字に出会ったら、それはそこに住む人間に向けられているのではなく、観光でやって来る都会の人間に向けられているだろう。なぜなら『里山』と呼ばれているところに暮らしている人たちが、自分たちの住んでいるところを『里山』と言っていることを聞いたことが無いからだ。

都会の人間にしてみれば、『里山』という言葉は風景が立ち浮かぶような魅惑的な言葉で、牧歌的で無添加で、素朴で絶品で、幻惑的な言葉なのだ。

自然の中で動植物と共生しながら田畑を耕し維持管理し穀物を育て、観光客が散策しやすいようにはみ出た雑草は容赦なく刈りこんで見栄えを良くする。

そこで野生の果実を採取して果実酒を作るような欲望は汚れており、清らかで聖なる里山にはとっても似つかわしくないのかもしれない。




5月上旬は、厚着を着込んでそのうえカイロをしないとまだまだ寒い季節だった。

作品制作をしているところは『里山』と呼ばれるところである。

作業中近所の農家さんのHさんがやってきてお話をした。

いま制作している作品の話や、土地の話をいろいろ尋ねた。

「このあたりに桑の木はありますか。」

「昔はたくさんあったけど、どうかなあ。あるとすればあそこにあるかもなあ。気にしておくよ。」

そう答えてくれた3日後に再びHさんがやって来た。


まだ実が成っていないので確かではないが、葉が桑の葉のようだから、もしかしたら桑の木かもしれないという。

さっそくふたりで見に行ってみると確かにそれは桑だった。

小さな木だがボツポツと周辺に幾つかある。

桑の実で桑の実酒を作りたい旨をHさんに打ち明けると、もう誰も桑の実を採る者もおらんから構わんと思うと教えてくれた。



それ以降、時折実を観察に行っては実が熟す頃を愉しみにしていた。




6月下旬、作業を一日休んで桑の実酒を作ることにした。

目星をつけていた場所の桑の実を収穫する。

この桑は芸術祭で設置された恒久展示作品の傍の駐車スペースにある。

桑の木が駐車スペースに迫り出すために頻繁に伐採されているようで太い木はない。そのため小さな実しかぶらさがっておらず、色付いていてもあまり甘くない。

それでも足場の良い駐車場にあり背の低い木なので、手が届きやすく収穫するのに好条件なので、眼につく限りの実をもぎ採った。

その駐車場から離れ、腰の高さ以上の生い茂る草をかき分け50mほど山の中へ入って行った先に大きな桑の木が立っている。何度か下見をするうちに、この落人のような存在の老齢の桑を発見していた。

大きな幹から伸びる枝の葉の間からは、成熟した女性の唇のようなどどめ色のはち切れそうな実が、雨後の蒸気でぬらぬらと輝いてぶら下がっている。

一粒もぎり口に放り込む。舌と歯を跳ね退けるようなムチムチとした実の肉感と、気が遠くなってしまいそうな甘さがある。

足場の悪いこの桑の木の下に脚立を運び込み、大粒の山の恵みを頂戴した。



昼前に収穫を終え駐車場に戻ると、草刈り作業をしている地元の方々に遇った。こちらに滞在している中で知った方も居たので挨拶をする。

ニコニコと笑いながら「ドロボーでねえか」と収穫したことを揶揄われた。

「誰も採らないからいいじゃないですか」と俺もはにかんで答える。


「ここから少し下ったところにウワミズザクラがありますが実を採る方は居ますか?」とアンニンゴについてついでに訊いてみた。

「いや、それは誰もおらんが、一粒○○円だなあ」とまたしても笑いながら揶揄われた。

それは冗談のつもりだろうけど、なんだか冗談に聞こえず笑えなかった。



宿舎に戻って収穫した実を水で洗い、一粒一粒手にとって茎をハサミで切る。すべての茎をとり去るのに5時間かかり、

実を竹ザルに移しならべ、風をあてて水気をとる。


夕暮れの中もう一度桑の実を採りに行った。

駐車場の桑の木は根元から伐採されていた。昼間草刈りの方々に遇ったときに、桑の実の収穫を愉しみにしていたと話していただけにとても暗い気持ちになった。


採った実をホワイトリカーと氷砂糖と一緒に漬け、4Lの瓶が2瓶出来た。




7月中旬、作品制作で忙しい最中、目星をつけていたウワミズザクラの実の様子を見に行った。

数本あったウワミズザクラの木がすべて根元から切られていた。

周囲の木はそのままに、ウワミズザクラの木だけが切られていた。

車道にはみ出していて危険だという感じではなかったし特に邪魔だとも感じなかった。

何故切られる必要があったのだろう。


俺はあの時に、ウワミズザクラの話をしたことがこんな結果を招いたんじゃないかと烈しく後悔し、ウワミズザクラに謝りたい気持ちになった。

クワの木もウワミズザクラの木も、実が鳥や動物に食べられるならまだしも、他所の人間に食べられてしまうくらいなら切ってしまえとばかりに無惨に切断されたように思えて仕方がなかったのだ。




いま考えればそれは俺の勝手な思い込みであることは十分考えられるが、その時は大きな衝撃で心は断絶してしまった。


# by koyamamasayoshi | 2018-10-01 23:49 | 日記

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# by koyamamasayoshi | 2018-10-01 22:09 | 日記

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# by koyamamasayoshi | 2018-09-30 23:21 | 日記

妻有鷲眼記⑵ カメラで撮ることについて考える

5月、イリア&エミリア・カバコフの作品「棚田」が眼前にある場所で自分は作品制作をしていた。

カバコフの作品は、棚田で農作業をする農民のシルエットと農作業に関するテキストが、ある場所から鑑賞すると重なって見え、この地の歳時記を絵本の様に表現している作品である。

芸術祭会期前にも関わらずこの有名作品に観光客はやって来る。土日休日となると観光バスのコースになっているようで大勢の観光客はその棚田に向かってスマホやカメラをむけてパシャパシャと撮影して去って行く。その光景を傍で眺めながら作業を進めていた。


その光景を眺めるうちに、なぜカメラで何かモノを撮るのだろうという疑問が沸いてきた。次第にカメラで何かを撮るということが自分にとってどうでもよく思え、撮ることがなくなっていった。

気になったのは、カメラで撮ることが主の目的になっているという点だ。カメラもしくはスマホという御朱印帳に、さも「ここに来た」という証拠を残しているように思えてしまうのだ。

証拠を残すことにどれほど意味があるだろう。そのことがどれほど人生を豊かにするだろう。

スタンプラリーのように御朱印帳に印を集めることよりも、寺社に参って神仏に対峙し、自身の心の中に何か救いを見出す心の変化が大事ではないか。

風景でも芸術作品でも同じなのだと思う。

それと対峙した時に何を感じるか、だ。

それが頭、脳、耳、身体を通過するよりも先に無意識に撮影してしまう。それはある意味で反射的で鋭敏な感覚かもしれないが、同時に多くの感覚をシャットダウンしてもいるのだ。

あたりまえだが、人間の感覚は視覚だけではない。そして記憶の構造も視覚だけで出来てはいない。

音が、味が、匂いが、時間が、また暑さ寒さが絡まり、頭の中に渾然一体とした情景が立ち浮かぶ。おなじものを見ながらも、人それぞれ別な情景が頭の中に浮かんでいるからこそおもしろい。



写真を撮るということを人間が皆一斉にやめたら、より文化が進歩すると思う。

写真は、手軽に撮れることで、ひとに伝える情報量とその手間を大幅に省いているともいえる。

気持ちや出来事、事象を伝えるのに、写真を使わず、言葉で詩で、歌で文章で、小説で絵で、音楽で身体で伝えるとする。

そういった手間のかかる部分に芸術が生まれてきたのではなかったか。

受け取る側の想像力を刺激するこういった芸術分野が、抽象的な何かを読み取ろうとする力を育てるのである。目に見える視覚ばかりを気にした作品が持て囃されてゆき、作り手もそんな作品ばかり作り続けていくようになったらこの先にどんな世の中になるんだろう。そこに情緒は残っているだろうか。

伝える側の技術能力が高まりさえすれば、自然と受け取る側のキャパシティも養われるはずだろう。



人間皆が一斉に写真を撮るのをやめることは、まずありえない。だからせめて、写真を撮る人間の有様がどうにかならないかと思っている。カメラで撮影している人や、スマホを向けて撮影している人の佇まいがとにかく美しくないのだ。特にスマホを一斉に向けている群衆のみっともなさ。「おわら風の盆」を見に行った時にはそれを烈しく感じた。暗がりの路地に美しい踊り手が静かに舞う。そのまわりに、無神経に光るスマホを掲げ、小さい窓から舞い手を覗くみっともない群衆の影。自分にもいいきかせたいことだが、群衆は群衆らしく、「情緒」のまわりでは大人しくなにもしない方が美しい。明治の写真の中の群衆はなんとも美しい。それは丸腰でなにもしていないという点で抜群に美しいのかもしれない。


また小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男の映画などに、自分(てめえ)のことばかりに終始している群衆のシルエットなど出てきたためしがない。だから美しい。



写真を撮りつつ美しい佇まいを自分なりに考えてみる。

お辞儀をした頭のてっぺんで写真が撮れるとしたら。

合掌をする手の間からそっと写真が撮れるとしたら。

非現実的だがそんな感じが俺にとってはまだ佇まいとして美しいと思えるところだろうか。


# by koyamamasayoshi | 2018-09-30 22:18 | 日記

妻有鷲眼記⑴ 人魚の宿


一昨々日から昨日までお世話になっている奥能登珠洲の製材屋のSさんが作品を観にきてくれた。

あらゆることに疲れていた俺は遥々来てくれたSさんに愚痴ばかり聞かせてしまった。

Sさんが帰っていった夜、「どんなことにも意味があると思います」というSさんの純真な言葉が能登から届きボロボロと涙がこぼれた。


ごちゃごちゃとした頭がふっ切れた翌日、今日は1日なにもしないことに決めた。



十日町を離れて魚沼方面へ軽トラを走らせる。

トンネルを抜けて浦佐に下っていく坂道の両側には連なった祭りの提灯がぶら下がっていた。終わったばかりかまだ始まっていないのか。

虫の字のつく地名の交差点を曲がっていった先に西福寺に着く。


幕末の名匠石川雲蝶が寺内の装飾のほとんどを手がけたという仕事を学びにやって来た。茅葺きの開山堂は、雲蝶が39歳の時に手掛け5年の歳月をかけて完成させた最高傑作だ。

緻密細密の超絶技巧と、豪壮勇壮で大胆みごとに形を捉える力は当代随一の透かし彫りを生み出し、観る者はすべての欲を投げ捨て、掌を合わせこの眼前に迫った涅槃の世界に言葉を失うに違いない。

欄間、虹拝、木鼻、本尊、燭台などの彫刻と彩色、襖絵の描画、窓格子の細工、漆喰細工などなど、これが一人の人間の手による仕事というのだから、どこをどう切り取っても太刀打ちなんか出来やしない。ただただ圧倒する。


このような個の技、個の業こそが芸術と信じているので、弱気になっていたところへ大きなエネルギーと勇気をいただいた。同時に芸術祭に一つとして個の業を見るような作品がなかったので、興行的なアートの軽さ薄さ浅さを片側で思ってしまう。



道の駅ゆのたにまで来たところで、すこし逡巡してから奥只見湖方面へハンドルを切った。ある目的を抱えて。


大湯から栃尾又温泉に寄り道して国道352号で奥只見湖を目指す。この崖沿いの山道はどこまでも登り坂で、永遠に登り続ける不安に襲われる。振り返れば周囲の山の頂を見下ろしさらに辺境へ突き進んでいる。まだまだ知らない風景があるなあ何処まで行っちゃうんだろうと楽観的でもある。集落もなにも無いところにバス停があり、時刻表をのぞくとなんと白紙の時刻表。いくら行ってもまだ峠に辿り着かない。時折案内看板がたち、銀山平の文字。

銀山平。ギンザンダイラ。この文字と音を憶えている。



ようやく道の先が下っている。峠だ。ガソリンを気にしていたのでそこから先の下りはずっとニュートラルに入れて下った。

やがてロッジが点在するキャンプ場に辿り着く。その中にはいくつか旅館もあり、その中から自分の記憶の奥底の泥のなかで裏返っている不確かな宿の名を拾い上げて、おそらくここではなかろうかと特定し、O荘という宿の玄関を開けた。


何て伝えたらいいだろうかと考えながら大きな声で「ご免下さい」と繰り返した。

やがて奥から宿の主人が表れて俺はどぎまぎしながら唐突にこんなことを訊いた。

「突然失礼します。かつてこの宿に泊まった者の話を伺いにやって参りました。」

間をおかず「東京藝術大学の…」と言い終わらないうちに「はい」と宿の主人は答えた。

行き当たりばったりでやって来たが、間違いなくこの宿であった。



銀山平、師の大西博の口から聴いた覚えがあり、その文字面の美しさと濁音の続く音の響きが印象深く、その上、銀山平での大西さん自身の伝説の話を本人からよく聴かされていたので忘れなかった。

稲妻が湖面にいる自分の乗る舟の目の前を奔った話や、ヌシを釣り上げた話…。

その後、師の葬儀に手向けられた花環の中に、銀山平の文字と宿の名が書かれているのをなんとなく記憶していた。



O荘は師の定宿で、大西さんが学生の時分からここに泊まりに来ていたという。

「こことそこに大西さんの絵を掛けています」と宿の主人が指差す先に大きな油絵が2点、壁に掛かっている。玄関の正面壁には高橋由一の鮭のように、鱒が画面中央に描かれている絵があり、吹き抜けになっている玄関上方の壁、2階廊下からは正面で見える位置に人魚と魚の曼荼羅のような油絵が掛かっていた。

「2階に掛かっている絵は確か卒業制作作品だと訊いています」「人魚のモデルは裸にさせられた若い頃の私です」と作品の裏側も教えていただいた。

ここで釣りをしながら卒制を描いたのだろうか。その油絵はぬらぬらと人魚の周りが妖しく輝き放ち、人魚は幼子のように神秘性を湛えている。


フロントを通り過ぎた先の廊下の壁には湖で釣り上げた大きな魚を掲げた大西さんの稚気に溢れた笑顔の写真が掛かっている。大西さん、やって来ました。声を掛けたら返ってきそうな大きな写真に思わず話し掛けてしまう。


魚拓を見せていただいた。桜鱒の魚拓で日付は平成四年七月二十六日とある。大きな魚拓には現認者の名前が並び、体重体長釣人大西博の名。

「未だこの大西さんの記録は破られていません」と宿の主人は付け加えた。

ヌシを釣り上げた話は本当だった。さすが伝説の男だ。



ご主人に礼を告げ、O荘の宿名の入ったライターを記念に買いO荘を後にする。


銀山平からシルバーラインに入って奥只見湖へ向かう長く続くトンネル。雨でもないのに水滴が至る所に沁み出しビタビタに濡れきった暗いトンネル。手掘りのようなゴツゴツした側壁には何かを縁取る線とよくわからない数値が白ペンキで暗く長く続くトンネルのずっと先にまでベタベタに書かれている。ラスコーの洞窟壁画を目の当たりにしたことはないが、おそらくおなじくらいの感動だろうと思われた。

「大西さん、俺がんばるよ」

そんなワンダーなトンネルの中を走りながら独り言を言った。


# by koyamamasayoshi | 2018-09-30 00:50 | 日記

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# by koyamamasayoshi | 2018-08-11 00:34 | 日記

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# by koyamamasayoshi | 2018-08-10 22:34


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