9/19 奥能登十六夜日記(2)

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台風一過、青空には大きな帆船のような白い雲が浮かんでいる。

朝食後、外浦の風景を4年前の記憶と重ねながらドライブした。真浦の美しい入江とそこに侵入する者に対して吠えたてる犬。タマという2匹の猫のいるゲストハウス。スナック旅路。流木と漂着物を集め続けた果てしない海岸線。

大谷集落の高台にある小学校の跡地に奥能登国際芸術祭に合わせてスズシアターミュージアムという名の郷土資料館と美術館と劇場を織り交ぜたような施設が体育館の中に出来た。

まだスタッフも来ていない時間に来てしまい、だだっ広い校庭を歩いた。校庭からは広い空と果てしなく広がる茫洋、水平線が地球の形に沿って一本のすっきりしたラインを引いている。眼下に大谷集落の小さな港と能登特有の黒瓦の家々が日本海に対峙して並んでいる。

この風景を見て育った子どもたちは何を感じて大きくなるのだろうと想像した。恐ろしいまでに大きな自然を目の前に、ひとりの人間の大きさを知ることが出来るだろう。

校庭入口の門柱には、吹き荒ぶ強風を日毎夜毎浴びてきた老木が、腰の曲がったお爺さんのように斜めに大きく傾いでも尚、その姿を保って生きている。

やがてスタッフさんが続々と車でやって来て、開場の準備を始めた。しばらく車のシートを倒して寝ながら待ったが、開場までまだ時間の余裕があるようなので、一度海岸線まで降りて、海の波音を聴きながら待つことにした。

遠景の水平線の上に雲が横に伸びている。果てしなく遠い何処かに雨が降っている。沖の上では白く光る十ばかりの点が西から東に移動している。

水鳥だ。晴れた日も波が荒れ狂う日も、海上を飛び続けては、波枕に身を任せて眠る彼らの過酷な海上生活に思いを馳せた。白く光る姿がお遍路さんを思わせる。遥か海上と意識が繋がり、わたしは一時、群れの一員になった気分を味わった。

堤防の上に寝そべり、目線と水平線の高さを同じにしている視界の中へオニヤンマがついーっと横切った。大きな薄羽のなかの脈が、朝日にきらめき中秋の気配を落としていった。

40分後、小学校の校庭に戻ると、数十台の車が校庭に虎ロープで区画された駐車スペースに止まっていた。

仮設テントブースで検温チェックと体調管理の記入用紙に記入して、問題がなければQRコード付きのリストバンドを受け取り、装着する。今回、芸術祭の作品を見て回る場合には必ず、その日その日毎日検温ブースで検温チェックして、リストバンドを受け取って装着する態勢になっている。


スズシアターミュージアムの作品を観る。地元の方々が寄贈した、かつて日用品として使っていた数多の民具を芸術家が扱い、その記憶を受け継いで演出し、土埃の中で眠っていた道具に「魅せる」という新たな存在感を与えて、暗い会場の中にほのかに道具たちの魂がぽっぽっと灯っていくのがわかる。

総合演出をした南条さんは、2017年の奥能登国際芸術祭において飯田の閉館した映画館シアタースメルで、採集した街場の記憶を見事に演出して多くの人に感動をもたらした。街場から村落へ向かい、埋もれていってしまう土地に眠る記憶を訪ねた今作は、前作の対をなすようなとても素晴らしい仕事だった。

前回の芸術祭の制作期間中にふらりとシアタースメルに訪ねた。その時に自分とアシスタントにむけて、特別にリハーサル中の演出を見せていただいた。その感動と感謝は今も忘れられない。やわらかい大きな手で魂に触れられたようで、鳥肌の立つような寒気と共に、佳境へ向かう作品制作になお一層立ち向かっていく勇気をいただき、興奮しながら自分の作業場に戻った記憶が甦ってくる。


高台の小学校をあとにし、外浦の道を車で走り出した。

海沿いの大谷小学校の校庭では運動会が行われていて赤白帽子を被った小さな子供たちが小さな旗を持って整列していた。

そこから外浦を禄剛崎灯台のある狼煙にむかって公開中の作品を見てまわった。それらの作品について自分が記しておくことはあまり無いので省略する。

狼煙の手前の美しい黄金色の稲田に、前回の芸術祭期間中には奇異なカカシ群が百鬼夜行していたが、今年は一体も存在しなかった。

昼ごろに狼煙の道の駅に着いた。カカシがいない代わりに、以前いなかった野犬が2匹、道の駅の売店の庇の下で休んでいる。ソフトクリームやコロッケを食べる観光者のそばに近寄り、出しっぱなしの舌から涎を垂らして、じーっと顔を見つめ続けている。そこに食べ物を与える者は居なかったが、中にはそういう観光者も居たのだろう。諦めることなくわずかなチャンスを窺っている。

黒蜜がけ豆腐ソフトを食べるわたしの目の前にも2匹は陣取り、何を考えているかわからない真っ黒い瞳で物欲しげに見つめてくる。食べ終わってベンチから立ち上がると、2匹は野犬の身のこなしでビクッと跳ね起き間合いをとった。

しばらく観察していると急に2匹は猛烈な勢いで道の駅内の駐車場を駆け回った。2匹の行先を目で追うと一台のキャンピングカーに近寄って、運転席を見つめている。運転席にはゴールデンレトリバーと牧羊犬が車内で待たされていて、牧羊犬の方が野犬の2匹に向かって飛び上がって吠えたてている。

その様を動物園の動物でも見るかのように、野犬の2匹は物珍し気に運転席を見上げていた。

昼食はドライブイン狼煙の優しい味の醤油ラーメンを食べた。

道の駅狼煙の駐車場を出るところで野犬が傍若無人に立ち塞いでいた。しばらく待っていたら、野性の嗅覚でまた何か嗅ぎつけて、本能の赴くままに突然駆け出してどこかへ去って行った。

懐かしい寺家、粟津、森越、伏見、高波の集落をゆっくり通り過ぎて、今回の旅の目的地である小泊集落の新出製材所に到着した。


2017年、わたしは第1回目の奥能登国際芸術祭に参加が決まり、何度目かの現地視察の時に、事務局の方に地元の製材所を紹介して欲しいとお願いしたところ、連れていってくれたところが新出製材所だった。親子2人の家族経営で働いている。

真冬の日本海の荒海の側で、野仏のようにじっと風雨に耐え忍んで建つ灰色の製材所の姿に、わたしは心細さと逞しさの相反するものを感じた。

工場の中の事務室に招かれ、人数分の缶コーヒーが置かれた石炭ストーブを取り囲み、自身の作品プランを説明した。

素人にはとても無理だ、というようなことをお父さんの幸雄さんにディープな珠洲弁で笑われ一蹴されてしまった。

息子さんの利幸さんは否定も肯定もしないでじっと話しに耳を傾けてくれた。

熱意と執念だけは持ち合わせているので、尚も作品の制作方法や解決策などアドバイスをいただきたいと相談させてもらっていると、やっと想いが伝わったようで、お父さんに船大工さんを紹介していただいた。その時わずかに、いけそうだという光がさした気がした。

それから滞在制作が始まり作業場として借りていた、たばこ組合の建物に毎日のように心配して利幸さんはやってきてくれた。当然、製材所の仕事があるにも関わらず、お父さんもトラックを出していただいたりとても気にかけていただいた。

作品が完成して一段落した時に、利幸さんが話しの流れでふいに、「親父が言ってましたよ。あの人からお金はとるなよ、って」と言った。

その言葉に甘えてはいけないが、わたしは流れる涙を我慢せずに感謝の言葉を伝えた。

あの過酷な作業の日々の中で、あの親子と結ばれた関係を文章にする体力がいま自分の中にない。ないが、忘却の彼方に消えないように、消えるはずもないが、感謝と縁の言葉をこころに深々と刻んでいる。

その新出利幸さんが、2回目の芸術祭に参加すると聞いた時は度肝を抜かされた!驚天動地。こんな嬉しいことはかつてない、小躍りするほど歓んだ。



そして今日、ここに辿り着いた。

連休の初日ということもあり、製材所には多くの来場者がやって来ていた。

見慣れた製材所が見慣れない製材所に様変わりしていた。普段車が出入りしている駐車場には、製材して長年出番を待っている幾つもの材と加工したテーブルが、ある一定の高さを保って整然と並んでいる。

製材して待機し続けている材の木肌は、日本海の風雨に曝され続けて恐竜の肌もしくは老人の皺だらけの肌ような粗々しさを湛えて深味がある。その対比に加工したテーブルは、ツルッと産まれたての赤ん坊の肌のように滑らかで、撫でると吸い付くような面をしている。

そのコントラストが時間の経過、形の変容、生命の過程、自然と人との境界線を表しているようだった。

作業場の板壁が取り外されていて、良すぎるくらい風通しが良くなっている。そのため遠望にはどっしりとした日本海の水平線が遮るものなく通して見ることが出来た。

ワークキャップに真っ白いTシャツ姿の利幸さんが笑顔で手を挙げて迎えてくれた。固く再会の握手をしながら「やりましたね」というと「やりました」と、なお一層の笑顔で応えてくれた。

「分かりました?」と利幸さんに訊かれたが、まだ作品の全容を把握出来ていなかったので説明していただくと、成る程これは凄い作品だと思った。

(しかしその時のわたしが感じた凄さは実は表面的な感動であって、その日の深夜、宿の布団の中で天井を見ながらしばらく考え続けて、辿り着いたこの作品の真髄は、完璧なまでに美しく計算し尽くされたものであることに気付く。そのことは翌日の日記に後述する。)

粗々しいまま製材された材が重なった幾つもの山と、駐車場入口から作業場を抜けて、低い堤防の上にまで幾つも並んでいる加工されたテーブルの高さが全て同じ高さのレベルで一定で、水平線のレベルと合致しているのだ。

駐車場は道路から入って作業場の建屋に向かって傾斜しているので、加工されたテーブルの脚の長さが全て異なり、脚の木口の接地面の角度もそれぞれ異なる。

つまり加工されたテーブルは駐車場のその設置されている点でしか存在を許されていないのだ。

山と海の間に存在する特異な環境の新出製材所、そして山が荒れると海も駄目になるという利幸さんの理念から、材やテーブルと水平線の高さを同レベルにして魅せることで見事に山と海を結んでいた。

お父さんは、ひっきりなしにやって来る来場者一人一人に、丁寧に分け隔てなく説明し続けている。そっとそばに近寄って「ご無沙汰してます」と挨拶するが、初対面の人に返答するようなぎこちないコンニチワが返ってきた。

マスクと帽子を取ってもう一度ご挨拶させていただくと、ハレという顔にかわって「なんや〜、びっくりした。コヤマさんかあ〜!」と優しい笑顔になった。

「お父さん、コレじゃあ仕事できないじゃないですか」と冗談ぽく訊くと、「おいね〜。でもなあ、コヤマさんやあ。わしらもコヤマさんにぃ、影響受けて芸術家になったからには、そのくらいの覚悟でやっとるから、どってことないよお〜」とお父さんは明るく答えた。

それに機械の油さしや、帯鋸の目立てなどのメンテナンスをしないと潮風にやられて錆び付いてしまうので、毎日来場者がいない時間に整備しておられるとのことだった。

会場ではなかなかお話し出来ないと気を遣ってもらい、お父さんの休憩を兼ねて隣の母屋に招いてもらった。お父さんもお母さんも一瞬、自分の姿とは気が付かなかったと口を揃えて言った。

2017年のあの時は、燃焼し尽くして体重が60Kgを下回り、内臓もだいぶヤラレテいて、ゾンビか干涸びたワカメか、あるいは黒焦げの焼けぼっくいのような存在と化していたので、現在の標準体型の姿の方が不自然にまるまると肥えて見えるらしい。

「今回こういうことをやってみて、コヤマさんの気持ちがよ〜くわかったよ」とお父さんはしみじみ言った。「やるからには徹底的にやってみた。途中こんなんやっとれるかと何度も放そうと思った。でも最終的に自分が一生懸命になってやったことに対して、お客さんが良かったよ〜!って言ってくれた時は、何にも比べようがない程嬉しいもんだね」ということを珠洲弁で熱く聴かせてくれた。

「利幸も休憩させてやりたい」と言ってお父さんはまた製材所に戻り、代わって利幸さんが母屋に戻ってきて、昼食を食べながら今回の作品の話をした。

「今回、制作の過程でワクワクがあまりなかったんですよね。でもコヤマさんの時にはワクワクがあったんですよ。それは何でかなあって考えてるんですよ」

利幸さんはご飯を食べながら思っていることを言った。自分はその理由が何となくわかるような気がしたが、「想い描いた風景は見れましたか」と少しズレたことを訊いた。

「想い描いた風景は見れたんですが、でもワクワクはあまりなかったですね」とご飯を食べながら遠くを眺めて理由を探していた。


製材所に戻り、4年前の作品制作で手伝ってくれたテッチャンと、作品設置場所の区長さんで大変お世話になった菊谷さんに電話をして、芸術祭を観に来ていると報告すると、お二人とも製材所へわざわざ出向いていただくことになった。

東京から来るという後ろめたさが、やはりこの災禍の中ではある。本来なら、その節は大変お世話になりましたと、挨拶して回りたいところだが、逃亡犯のようにひっそりとお忍びで悟られないように帰ろうと考えていた。しかし、こそこそと来て帰ってから誰かから実は来てたんだよと知られることは不義理だと感じて、思い切って電話した。そうして良かったと思う。

4年ぶりに逢うテッチャンは少し痩せて見えたが、以前に比べて優しい瞳をしていた。そしてごく最近長く勤めた船を降り、あらためて芸術家として歩み始めていた。

やがて菊谷さんも来ていただいたが、最近市議会議員になったということで、大変忙しい最中わざわざ来ていただいたのが申し訳なさすぎて恐縮した。

しばらく製材所でお話ししている中で、菊谷さんが芸術祭のある作品の制作をしているということを話し、どんな作品を制作しているのかとても興味が湧いた。現在その作品はメンテナンス中で、菊谷さんが仲間たちと借りている作業場にあるというので見せて貰いに出掛けた。

平屋の広い作業場で、木工機械が何台も設備され、木工道具、さまざまな大きさの木材、組み立てられた製品などの一角に、大きな車輪型の木工作品が置かれていた。

話しを聞くと数週間前に突然依頼され、しかも当初図面はなくラフスケッチだけだったらしい。さすがに図面がないと手のつけようがないので作者から図面を送ってもらって制作したという。しかし、さすが寺家のキリコを作った菊谷さん、苦労を苦労として人に見せず、さらりと当たり前のようにこんな大きな作品を、作者の想い描いた通りに作ってしまう。一世代ニ世代上の職人の技術と意地は凄まじい。

今年は特にパンデミックによって海外からの渡航が厳しい状況にあるので、菊谷さんに限らず、地元の腕に覚えのある職人が海外アーティストの作品制作に携わっていることだろう。


テッチャンが作品と関わりない話で菊谷さんに、「〇〇さんどうしてます?」と尋ねた。〇〇さんはわたしも知っている人物で、滞在時に強烈なインパクトを受けたが、この人のことを何処にも書くことが出来ない。

「あー、死んだ。〇年前かな」あっさりそう菊谷さんは答えた。

その答えが、その人の生きてきた道と死に様を言い表しているようで、なんとも言いようのない感慨があった。

手土産を持ってこなかったにもかかわらず、菊谷さんから制作した衝立をいくつもいただき御礼の言葉を伝え製材所に戻った。また粟津の秋祭りに呼んでいただけたらとてもうれしい。


17時を過ぎて来場者は徐々に帰って行った。わたしはもう少し、新出さん親子と話しがしたくて待っていたが、会場となっている作業場の閉場作業がまだまだあるようなので、待っているとかえって迷惑になると思い、「忙しいようなので、失礼します」と告げた。「ごめんね、そうして〜」とコンパネ越しのお父さんの声を確認して宿への帰路へ向かった。

夕陽が外浦の海に落ち、曽々木の宿に着く頃には夕闇の只中にいた。

夕食を済ませると布団に突っ伏して眠りに落ちた。そして深夜、目覚めて布団の中で新出さんの作品について自分なりに考えを巡らしていた。

その夜の月の様子がどうだったかは記憶にない。

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by koyamamasayoshi | 2021-09-19 22:13 | 日記


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