山から海

2ヶ月半大変お世話になった中之条の製材屋さんに別れを告げて、8時間積荷を運搬し能登半島の突端珠洲市に到着した。


山では、ワラビ、たらの芽、タケノコはマメが出来る程とった。カモシカやアオゲラ、赤ん坊がお腹に掴まったまま車の前方を走り抜けたサル、罠に脚を捕われていた大きなイノシシにも遭遇した。夜はフクロウやトラツグミの鳴き声、深夜寝ぼけて鳴いているのかウグイス。忙しい作業の合間の出来事は形には残らないけど、記憶に残る。
そして、毎日の食事洗濯をしていただいた製材屋さんのお母さん、冗談ばっかり言ってお酒の相手をしてくれたお父さんに感謝しかない。ありがとうございます。


積荷を積んだままのトラックで早速、漂着物をなんとなく探した。2月に下見に来た時よりも減っている気がした。すでに清掃されてしまったのだろうか。
17時、宿舎に入り、そこから歩いて5分の海岸へ海を見に行く。夕陽はもう落ちていて多少赤紫色が残っている。
遠くをはしる船をみながら、山から海に来たんだなあと感じた。
# by koyamamasayoshi | 2017-06-18 07:45 | 日記

6/8

4月頭から作業している物体に、一、二日でメドがたちそう。まだ全体の半分なのに疲れ果てて。
作業中流しているラジオが社会の窓で、バカに殺される世の中がひたひた迫っている。

それにしても神保町シアターの「母という名の女たち」特集上映観たかったなあ!またの機会だ。
# by koyamamasayoshi | 2017-06-08 23:17

A金物店

一昨年の中之条ビエンナーレにて大変お世話になった製材所さんに4月から寄せてもらい、作業場を借り作品制作を始めて一ヶ月が経った。
そんな中、いままで滞在制作にて最も頼りになる不動の絶対的存在はホームセンターだと思っていたが、その位置づけが変わり始めている。

製材所のおとうさんに連れて行ってもらいふらりと立寄ったA金物店は、ホームセンターには置いてなかったものが、もしあるんならラッキー♪ぐらいの薄い期待で入店したが、驚愕の品揃えだった。ないものはない、なんでもある。カンナだけでも数十種類ある。かんじきもある。店の商品を眺めているだけで作品の新たなアイデアや解決方法などが自然と浮かんでくる。
ほぼ毎日出掛けていくと、職人さん、業者さんなどプロの馴染みの方々がやって来ているのがわかる。
品揃えだけではなく店員さんがとても親切に対応して商品説明してくれる。ホームセンターの店員さんに尋ねても、専門知識が乏しいので、こういう対応はまず出来ないだろう。

専門店の面白みは、その業者の世界の一端に触れるようで楽しい。かつて気仙沼の漁業関係の道具専門店でガラスの浮き球や、ゴム製のイカの疑似餌を大量に購入したが、知らない世界のものはそれだけでとても惹かれるものがある。
2013年に気仙沼を再訪した時には結局その店を探し当てることが出来なかったが、どこかで続けているだろうか。
# by koyamamasayoshi | 2017-05-04 20:20 | 日記

どこかにいるひとりの絵描き

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或るひとりの絵描きのはなしを聞いた。
都内の美術系大学を10年前に卒業したあと、なにかのアルバイトをしながら兄と暮らし、郊外で絵を描き続けている。アトリエで彼は美しいと感じるもの、描きたいと思うものをただひたすらそこらにある紙片に描きつけている。それは世の中の流れ、社会の流れにまるで関係ないような、そして描くモチーフとしては凡庸で描きたいという衝動がなかなか生まれにくい、林檎などを描き続けている。彼にとっては紙片に描かれたものは習作で、それらは人に見せるようなものではなく、大切に纏められている。
大学の時の恩師が関係する公募展に年に一回油絵を出品する。それが彼の絵が世の中に顔を出す機会である。


時間の限り絵に向かい、人からしたら凡庸なモチーフをドローイングし続ける精神力はだれもが持っているものではない。
『或る「小倉日記」伝』の主人公のように、
「こんなものを描いていて何になるだろう。誰のためになるのだろう。時間の無駄じゃないのか。そんなことに時間を費やす自分は何のために生きているのだろう。」
という考えがよぎり次第に頭を支配し、自分の存在がぐらつき自信を失ってしまう。これを独りで抱え込み、それでも自分を信じ続けるには相当強靭な精神力がいる。その上理解者がたった一人でも居ないととても続けられないだろう。
絵描き仲間同士コミュニティが出来ていたり、大きな制作場所をシェアして、お互いの作品を批評しあい、芸術談義をする環境にいる絵描きたちは、この自己の存在意義を自問自答してしまうような深い闇の中に引き摺り込まれる時間を一時でも紛らわすことが出来るかもしれない。
しかし、絵描きに限らず、誰であれ結局は独りだと思う。
継続していくことが難しい芸術家(自称芸術家であっても)には、
これをやらねばならぬという使命感を持つ人物と、孤独に耐えられる精神力を持つ人物と、なーんにも考えない人物にしかなれないのかもしれないと思う。


常に自分の中にあるテーマに向き合ってライフワークを作り続けるひとがいる一方で、作品発表の機会ごとにテーマを考え新たな作品を生み出すひとがいる。
「制作期間」に入っている時は夢中で作品制作に没入していられるが、発表の機会が続かないと手が止まり考えばかりが押し寄せて不安定な精神状態になることがある。
発表の機会で左右されるような制作のモチベーションは、発表の機会の少ない自分には、山と谷の高低差のある線グラフのようなモチベーションになり、精神も参ってしまう。だが低調ではあるがずっと続くライフワークのような制作モチベーションは、本来自分が持っている制作衝動だし長く時間をかけて取り組むものだろう。二つを同時に育てていくことが大切だと思うが、心がうつろいやすい自分はなかなか思うようにいっていない。
それでも昨年からはそのライフワークのような制作として東京漂泊日記と題した木版の風景画を制作し始めた。やはり少しでも手を動かし続けていた方が考え込んでいるより精神状態がいい。

そんな作業をしてる時にふと、どこかにいる絵描きを想像する。
ひとりひとりの孤独の中で絵筆を握っている、どこかにいる絵描きを。
大学の時や、美術予備校でイーゼルを並べて絵を描いていた知人たち。
その当時の熱情の姿のまま思い浮かべる想像の中の彼らに、
そして郊外に居るという顔も知らない絵描きに励まされる。
# by koyamamasayoshi | 2017-03-25 16:33 | 日記

ペッパーの孤独

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softbankの店内や家電量販店などの入口付近にヒト型ロボットのペッパー君が居る。人の声を認識して商品や店内の案内をするようだ。
昨年倉敷に行った時に、駅改札にペッパー君が居た。同行していた親が洗面所に行っている間、遠巻きにずーっと彼を見つめていた。子供が一回側に寄っただけであとは誰一人として彼に話し掛ける者はなかった。通り過ぎる人の視界に入り認識はされているようだけれど話し掛けられない。ロボットに話し掛けるという恥ずかしさが充満している空気の球体の真ん中に彼は立っているようだった。
彼は人の体温を認知するようで、穴ぼこのような眼で通り過ぎる人を顔を振って眼で追うのだ。駅改札で佇む彼の前を横切る多数の人を必死で眼で追いかけ顔がガックンガックン左右に振れている。感知してから時間差があるようで誰を眼で追っているのか、もはや分からない。しかし必死で顔を振っている。そして何故か上下にも顔を振り、何もない虚空を眺めているのだ。実に健気だなぁと思った。
来るか来ないか分からないものに対して頑張り続ける孤独。
梶井基次郎の本だったか、窓から見える闇の中にぽつんと街灯が誰一人歩いていない寂しい街道を照らし続けている…、という一文があった気がする。まさにその街灯の孤独というか寂寥はペッパー君の孤独と同じだと思う。
# by koyamamasayoshi | 2017-03-19 20:45 | 日記

3/1

1954年、壷井栄原作、久松静児監督作、香川京子、杉葉子、田中絹代、轟夕起子、花井蘭子が5姉妹を演ずる、豪華共演映画「女の暦」。2015年、ラピュタ阿佐ヶ谷でこの映画を見逃して以来どこかで上映の機会を待っていた。
渋谷シネマヴェーラで新東宝特集の中にこのタイトルを見つけ出掛けた。1954年、同年に公開された木下恵介監督の「二十四の瞳」と同じ小豆島を舞台にしている。この5人の女優の美しさ、巧さ、可愛らしさ。香川京子と杉葉子が自転車に乗って小豆島の美しい風景を駆けてゆく。ああ、すばらしい、本当に素晴らしい。小豆島にまたふらりとゆきたくなる。昨年末、シネマヴェーラで同監督の「怒りの孤島」を上映していたらしい。また機会を待ちたい。
# by koyamamasayoshi | 2017-03-01 22:32 | 日記

きんた

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近所に秋田犬を飼っている家がある。俺はそいつを「きんた」と呼んでいる。ほんとの名前は知らない。犬らしく媚びを売ってしっぽを振ったり、単純な犬らしくやたらめたら吠えかかって来ない。きんたは、大体黒目がちな眼を顔や体をこっちに正対することなく流し目をくれるのだ。たまにこっちが手を振ったりするとワオワオと遠吠えの様に吠えてくる。ついこの間は、きんたの前を歩いていると俺の後方を見つめて、見えざるものに吠えかかっているようだった。今日はスーパーで買ったさつま揚げを齧りながらきんたの前を見せびらかして歩くという名案が浮かび、実行した。なぜか通り過ぎる前から先行して吠え出した。不思議なやつだ。
# by koyamamasayoshi | 2017-02-28 23:06 | 日記

2/28

ポレポレ東中野「人生フルーツ」13:00の回を観る。上映前の予告映像から、隣の席のおばさん二人の会話がうるさい。その上独り言も激しい。周囲に自分の気持ちを顕示するタイプの独り言だ。あまりにうるさいので注意した。
あるラジオでパーソナリティがこの映画を絶賛し感想を述べているのを聴きやって来たが、正直期待はずれという気持ちだった。ラジオでは、かつては住宅公団のエースだった人物が、生産性重視の時代の流れに逆らうような住宅プランを提案するが弾かれてしまい、その後夫婦でこの時代の波に抗うように小さな里山のような自宅で自給自足して暮らしている…という前情報だった。その部分にとても興味を抱いていた。実際映画を見ると「良い部分」「正当性」「スローライフ」ばかりに視点があたり、対抗するような描写に欠けているなあと感じる。この映画の中に登場するご夫婦に「悪い部分」「醜い部分」を求めているということではなく、「良い部分」ばかりを羅列するような映画の作り方はどうなんだろうと思う。ドキュメンタリー映画としては作り手の気持ちが撮影対象に近づき過ぎているように思えるし、極めてフラットな感情で淡々と撮影していたらもう少し違っていたと感じてしまう。何か一方向に向かい過ぎている空気が嫌いなのだ。
その上、この映画を観に来ているおじさんおばさんの眼球に写る、光り輝く憧れのスローライフの見本の像がスクリーンに覆いかぶさり見ていて段々と弾かれていくのだ。

社会批評性の高いドキュメンタリー映画を観ているだけで、その問題に一瞬向き合えていると錯覚する劇場の空気。そして向き合えている自分を自己顕示する独り言を発するおばさん達。ドキュメンタリー映画を観るときは本編以上に周囲の空気感が気になるものだ。
# by koyamamasayoshi | 2017-02-28 22:37 | 日記

2/27

ああ、憂鬱だ。物事に移る、動き出す前の不安と臆病な気持ちの中にいる。
いつ出来たのか舌の奥に硝子の欠片のような赤い腫れ物ができている。舌の奥の見えない奥にも違物感がある。お腹は減るのにものを食べるのが楽しくないので、より下向いた気持ちになる。
昨日、妻に梶井基次郎の文庫本を買ってもらった。こどもまんが文学と、昭和4,50年代のサザエさん、それから初回のちびまる子ちゃんの動画を見た。いまの単純な気持ちに入ってくる。沁み入った。
妻と近所の川を散歩した。一生を人は(俺は)何で埋めるのか。憂鬱になるとこの問いばかりが浮かぶ。憂鬱になるとというか、忙しく目まぐるしい時には単に忘れているもので、常に隣にある問いだ。おじいさんが自転車を押し散歩している。お婆さんが犬を連れて散歩している。ベンチに座っている人。河岸工事を眺めているひと。白鷺を見ているひと。川原でグランドゴルフをしているひと。対岸から双眼鏡でカワセミを探しているひと。
生きていく中で何か大変なこと、面倒くさいこともありつつ、それを何で誤摩化すか。誤摩化したことで誤摩化したと悩んでしまう俺は未だ誤摩化すものを探せていない。
# by koyamamasayoshi | 2017-02-28 00:45 | 日記

2/22

朝8時、旅館近くのバス停から金沢行きの特急バスに乗る。車中ほとんど寝ていると2時間半ほどで金沢駅に着く。コインロッカーに荷物を預け、一日乗車バス券を買い求めて市内を観光する。
金沢21世紀美術館へ行く。「トーマス・ルフ」と「デザインと工芸の境界」の企画展をやっている。後者の展示は六本木でやっているデザイン企画展と似たような印象を受けた。シリーズごとに分けられたトーマス・ルフの企画展は夜のシリーズ、新聞切り抜きシリーズなどが好きだった。作品の概要文が寄せられているが作者がどういう思考で作っているのか、興味深くそして考えさせられた。
常設展は、記念撮影をする為の観光スポットのような印象だ。作品を撮影する気分にならないので、この美術館に占めている空気感には馴染めず去る。
タテマチ商店街~幸町~桜橋~寺町を歩く。途中、狭いクランクで立ち往生している車を、助けようとするが、切り返しの下手な俺の案内ではやはり申し訳ない結果に導いてしまった。片町~長者町~香林坊。バスに乗りひがし茶屋街で降りるが、女子ばかりで何だかうんざりしてきた。女の子が嫌いでなく、女子旅の空気感が苦手だ。観光マップに菓子木型美術館の文字を見つけ向かう。骨董市で頻繁に見掛ける菓子木型が壁に沢山陳列されている。そしてなぜだか分からないが「2001年宇宙の旅」のメインテーマ曲、もしくはボブ・サップ入場テーマ曲である「ツァラトゥストラはかく語りき」がBGMで掛かっている。木型がモノリスには見えないし、ボブ・サップのようなビースト感を感じることは出来ない。
尾張町~近江町市場~武蔵町を歩いて駅に戻る。金沢カレーが食べたいのに、カレー屋が見つからず15時まで食いっ逸れる。駅でゴーゴーカレーを食べたあと30分の寂しい道を歩いてユナイテッドシネマに映画を見に行く。「この世界の片隅に」17:35の回をみる。客は4.5人。以前からラジオでこの映画の宣伝CMを聞いていた限りでは、主題歌の女の子の「悲しくてやりきれない」の歌い方に相当な違和感を感じていたし、フォークルの「悲しくてやりきれない」の寂寥感には、この歌い方では届き得ないだろうと感じていた。しかし本編を観ると相性が良かったんだなあと感じる。うしろで観ていた女の子は終映後ひとり泣いていた。30分掛けてまた寂しい道を駅に戻る。高速バス乗車まであと3時間、暇を潰さなければならない。駅のベンチで「覗くモーテル 観察日記」の本を読む。22時50分、八王子行き高速バス乗車。途切れ途切れ受信する深夜便をイヤホンで聴きながら、上手いことフィットする姿勢を狭い座席内でゴソゴソと模索し続ける。車中、何発か寝っ屁を放った気がする。いやー参った参った。
# by koyamamasayoshi | 2017-02-24 01:06 | 日記


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